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カール・セーガン「はるかな記憶」の項、追稿(赤字)。 朝、大きすぎるマグで珈琲を飲んでいたら、遠くで「かはず」の啼き声が聞えた。それはまちがいなく去年の夏、キャッツキル山系でキャンプしたときに聞いた大ガマガエルの声音が、時空間の歪みでやっとこの大都会に届きました、というように、どこかでわざとらしく、どこかでなにかをとってつけた「英語」の物欲の意味を詠っているように聞こえてきた。I got'em, I got'em ALL…と。 いくら懐古趣味のニューヨークでも、現代では「かはず」などとはいわないが、芭蕉の「古池や…」の句は、Haiku の代表作として、ほとんどのニューヨーカーに至るまでポピュラーであり、僕の耳に届くまでに多少語形が転換したにちがいない。日本から遠く離れると日本語も転換をくりかえしている。アメリカ発のグローバリズムが、どこかで歴史の堰を切って逆流しているようで、それなりに気持ちがいい。その後も蛙(かはず)は僕がマグを口もとに運ぶたびに、英語で啼きつづけている。ちなみに「マグカップ」は、意味が重複した和製合成英語。 セントラル・パーク動物園のなかのカフェは、数年前まで Leaping Frog Café と呼ばれ、芭蕉の句を意識したセンスのよい意匠だったが、出てくるものはむろん蛙のハンバーガーなどではなく、当時のアメリカとしてはめずらしい「お子様バーガー」まで用意していた。 その空間で珈琲マグをいじっているだけで、一瞬この喧噪の街に隠されてはいるものの、いつもわれわれの心のなかに重なっている、あの古池のある静寂の世界が露出する。産業革命以前の世界とは、こんなに静かだった、という感慨が奔る。マグをテーブルに戻した次の一瞬、また覆っていた時空レイヤーがはずれ、フィフス・アヴェニューのクルマの音と、子連れの家族に溢れた喧噪へともどってしまうのだが、この異空間はどうやら「蛙と珈琲」というどこか絶妙なイメージの組み合わせから生まれたのだ。僕のなかでのこの極端な異種混合イメージはこうしてはじまった。 この象もライオンもキリンもいない小さな動物園は、もともとここセントラル・パークに生息する動物を集めることからはじまった自然動物園だそうだ。80年代、僕がはじめてこの街にたどり着いたころに建築家ケヴィン・ローチが改装してさらに居心地がよくなった。熱帯雨林から来られた数多くのカラフルな移民蛙たちも住まわれている。Dart Poison Frog(矢毒蛙)は、南米先住民がこの蛙の背中から出る毒を集め、矢に塗って猟に使われたという。Panamanian Golden Frogという黄金色のかわずは、なんと手信号で仲間とコミュニケーションする。生息地域が川のせせらぎの音が大きい場所ゆえに、声がかき消されてしまうので、いつのまにか仲間に手で合図を送ることを覚えた。マンハッタンの交差点の対面に偶然友人の姿を見つけ、叫びながら手を振る人間たちよりもずっと風情がある。Waxy Monkey Frogs(ソバージュ・ネコメガエル)はこの写真で見るかぎり、耳のないスター・ウォーズのヨーダそっくりだ。 タイトルを含むこれらリトグラフの作品群は、ことし2月に亡くなったケン・プライス Kenneth Price 制作のマグと蛙のシリーズである。かれの履歴には、半年間トーキョーにいたとだけ書かれているが、芭蕉に強くインスパイアされた形跡がある。背中にマグを背負った蛙という組み合わせがあまりに自分の心象を突いていたので、紹介する。ロサンジェルスで生まれ育ったプライスは、ティフアナ族のメキシコ陶器に興味をもち、のちにあのプエブロ族のニュー・メキシコ州タオスに移り住み、多数の陶器作品を制作した。当然マグの作品も多い。 今回のMoMAでの展示は、これらのリトグラフ作品と、ほとんど「メルトダウンした蛙」と呼びたくなるような、不思議な感触の陶器群が並んでいる。 芭蕉の「古池や…」の句を聴いた者は、古い池のなんとなく苔むして濁った水と、蛙というどちらかといえば醜悪な動物との組み合わせで、侘びの世界に入り込む。そして、その蛙が飛び込んだシンプルな「音」が、こちらの世界に響いてきた瞬間、今まで濁って澱んでいた世界が一瞬に浄化してしまう感覚に溺れる。その浄化の風景は、英語:The ancient pond A frog leaps in The sound of the water.(英訳:ドナルド・キーン)となっても、人びとの心をうつ。いつのまにかわれわれの精神のなかの古池の水は、澱んで苔むした色彩ではなく、飲んでもいいほどに澄み切った透明体に変化している。こういった音による精神の浄化は、静寂の世界にいるとき、われわれの日常にしょっちゅう起こっていたことかもしれない。感じる方の騒々しい現代の都市生活ゆえに、その奇跡を起こす小さな音すらも聴こえなくなっているのだ。 またしても極端な比喩に飛んでしまう。福島原発事故のあと、大量の放射性物質が海に流されたとき、世界中から喧々たる批難を浴びた。いまだにそのとき何らかの対処法があったはずだと思うのだが、日本政府は無責任に垂れ流しを容認し、海は汚染され、太平洋の彼岸までもが汚されつづけ、深く汚染が浸透する。だがその澱みきった水の事態が、人びとの心の中に「脱原発」の意識を目覚めさせた。海水は浄化どころかこれからも汚れつづけるのだが、少なくとも「節電」や「自然エネルギー」という新しい意識があることをみんなが気づいた。ここでわれわれの精神を浄化するため、古池に蛙が飛び込むような静寂のなかの「音」を期待したのだが、どうもそううまくは問屋が降ろさない。反原発デモの声のなかに共感を覚えるものがあるが、その声だけでは放射能の浄化にはほど遠い。地球上の全員の意識が目覚めぬかぎり、浄化の物語は永遠に好転しないだろう。しかしながら、ひとりの意識が目覚めれば、地球はそれだけ確実に浄化の方向に向っているということができる。問題はその純粋な音、蛙が飛び込む音を聴き取れるか、ということにある。 人の心のなかには、澄み切ったカップ一杯の水があるという。世間の荒波というものに揉まれて、水はしょっちゅう濁ってしまうのだが、その人の心が邪念のない瞑想をくり返すとき、水はまた少しづつ浄化され、澄んでいくのだという。 子どものころ、おとなたちがうまそうに珈琲をすすっているのを見て、黒く澱んで、邪気の塊のような飲みものを飲んで無理矢理悦に入っているのだ、という印象だけがあった。ませた中学生がミナミのジャズ喫茶というところでそのどろどろした液体をはじめて試したときから、その澱みこそが心を浄化するものではないか、と気づきはじめる。 珈琲という、いまだに不思議な感触の飲みものに深く触れたのは、京都での学生時代からである。濾過紙を透って落ちていく黒ずんだ液体の魅力に憑かれた。日本の珈琲はおしなべて濃く、特に京都には深い味わいを追求した喫茶店が多い。その液体が、こんどは即座に内臓を濾過紙にして血液に溢れる。深いメディテーション状態になった脳が、突然それまでの思考パターンに大きな変化をもたせ、ひとまわり高い次元にはまり込んだ錯覚がある。幻覚でも正常な感覚でもないので、錯覚と呼んだのだが、そこにはいままでの思考では表現できなかった深い解決が閃いていることが多い。冷静な瞑想時間に裏打ちされたアイディアは、現実世界の対応力にも富んでいる。以来東京でも、ここマンハッタンでも、簡単に現実的異空間に移動できる魔法の飲み物として、日に何度も愛用している。 世界一珈琲のおいしい最大消費地の皆さまに、まずい方から数えた方がかなりはやい珈琲合州国からのメッセージもないものだが、僕なりのこだわりもいろいろある。激寒の真冬に1ドルの紙コップ珈琲をもって街路をさまよっていると、たちまちアイスド珈琲に変貌し、やがて褐色の氷となって手放すこととなる。味はともかく、これもひとつの風情と感じられるようになった。 ここ数年、グローバリズムからのイタリア文化の巻き返しで、ニューヨークでも結構すばらしいエスプレッソやキャプチーノを味わえる店が増えたが、珈琲は瞑想とのセットということを考えれば、喧噪のミッドタウンで他の客と席を取り合い、あたふた喉に流し込む愚は犯したくはない。イタリアン・カフェこの一軒ということなら、30年来通っているヴィレッジの老舗、Caffe Dante: MacDougal St., Bet:Bleeker & W.Houston を推薦したい。 全共闘世代のワセダに留学し、いまはフレンチ・アルプスに住んでいる珈琲好きの自然人/山男チャックのことを思い出した。トーキョーの珈琲屋でメニューに「アメリカン珈琲」と書いてあったからよろこんでチューモンしたら、ただその店のレギュラー珈琲を薄めたものであった、と憤慨する。チャックは興奮すると、ワセダのおニイさん方に習って覚えた熟達したベランメェ口調になる。「テメーら日本人は、俺たちアメリカ人の脳がウスイんじゃないかと思ってんのか? なんで豆の少ない珈琲におなじ値段出さなきゃいけねーんだ、えぇ!」YesともNoとも答えられずに考えていたところに、カリフォルニアのダイナーズのウエイトレスが5杯目の珈琲のおかわりをサーヴしに来た。確かに何杯飲んでも胃潰瘍になどなりようもない「ウスイ珈琲」の味で「こりゃ、おかわりがタダなわけだ」とふたりで大笑いした。 カール・セーガンは生命の遺伝の不思議を書いた著書「はるかな記憶」のなかでこう述べている。「人類が好むコーヒーの成分は、もともとは、昆虫や小動物が豆を食べてしまうのを防ぐために備えている『毒』だった。もともと毒であるコーヒーを飲めるようになったのは、人類がきわめて進んだ肝臓を持っているからに他ならない。」 その直前の項にはこう書かれている。「植物は、毒を持つことで、動物に食べる気を起こさせないようにしてきた。動物の方は、解毒法を身につけ、解毒のための特別な器官(肝臓が最もよい例だが)を発達させて、植物の進化に足並みを合せようとする。」 ぼくたちの肝臓は、珈琲の毒によって鍛えられ、いまやその毒を飲んで得られる覚醒作用はおろか、クリエイティヴな感覚を研ぎ澄ます道具にまでしてしまった。植物との競争からはじまった双方の進化は、その競争をも昇華し、いまやどこか高次元の宇宙をかいま見ている。マグを片手にそんな新手の錯覚をも育む。 筒井康隆「旅のラゴス」は、著者にはめずらしいポジティヴな進行形の旅のSFである。はるかな過去に地球から移住してきた人類が、新しい文明を拓けないままの惑星で、主人公のラゴスがその星の北から南に旅をする物語。その南の村で、かっての開拓者であった先祖たちの残した書庫と、野生化した赤い実をつけた灌木=珈琲の木を見つける。古書籍を探って、栽培と焙煎方法を見つけ、村人に教えた。「おれは二千年ぶりに珈琲という飲みものを味わう最初の人間となった」のである。珈琲で富を築いた村は数年のあいだに王国となり、ラゴスはその国の王様となる。 この著者の夫人は、某珈琲豆メーカーの令嬢だったという噂だが、以前から「煙草と珈琲は人間を情緒的にする偉大な発明」と発言されている。煙草が世界的に権威を失墜してしまったのにくらべ、珈琲という飲みものの勢いはとどまる所を知らない。 「旅のラゴス」の物語は、ほとんど前人未踏と言っていい荒れ果てたその惑星の各所を旅し、そこにある風景ではなく、そこに住む「人間」を描いている。危険な僻地を旅するグループが「集団転移」など不思議な超能力を発揮するのに対して、都市の人間が現代社会に近い生活を求めているのが象徴的といえる。さまざまな人種を知り学び、最後に北にある故郷に帰るという「帰郷」の物語。ここまで一杯の珈琲で繋がっていたインスピレーションの謎が解けた。どうもこの稿のタイトルに「蛙」を選んだのは、その響きの「帰る」が重なっているからのようである。ただし芭蕉の音読のように「かはず」と言ってしまうと、今度はその響きが「帰らず」という否定形に近づく不思議がある。芭蕉という巨大な先人を頂く日本文化への帰還。芭蕉は鎖国体制の列島のなかで旅をしつづけ、そこにある風景を捉えているのだが、実はその極端に短いことばの風景を媒体にして、やはりそこに住む人間の影を描こうとしていたのではないだろうか。自然のなかに帰りたい人間、あるいは複雑に自然回帰できない状況を繰り返す人間。「五月雨をあつめて早し最上川」の句には、広重の絵からぬけ出したような、河岸にあたふた動く蓑傘を着けた人びとがかいま見える。 長いあいだ、世界中のあちこちで獲れた珈琲豆をブレンドすればするほどいいと思い込んでいたが、どうもコクが出ればいいというものではないらしい、とわかってきた。折からグローバリズム経済反対の立場から、最近は一種類をストレートで摂ることに凝っている。Pacific Rim などというブレンド名も、どうもTPPを思い出していけない。一種類の豆をストレートで飲むと、その豆が育った風土のようなものが強く感じ取れる。今朝は Kenya Grand Cru と名付けられたケニヤの豆を轢く。はるか遠く、頂上に雪を頂いたキリマンジャロが見える。Intense Body の豆のおかげで、標高2000m の熱帯の風景が鮮明に眼前に迫る。行ったことがあるとかないとかの、ことばよりもまえに、そこに広大な自然がそびえ立ち、たわわに赤い実をつけた灌木の風景が具現している。 夢は枯野を かけ廻る(めぐる) Stricken on a journey, My dreams go wandering round Withered fields. (英訳・Donald Keen) 突然の病に倒れた芭蕉の最終吟。其角「枯尾花」によると「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、〜旅に病で夢は枯野をかけ廻る。また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也、と悔まれし。8日の夜の吟なり」とある。 陰暦10月12日、大阪南御堂に近い「花屋」の離れで、芭蕉は門人たちに見守られながら彼岸へと旅立つ。 その臨終のかれをとりまく風景は、荒涼たる枯れ野ではある。が、そこにはさきほどのキリマンジャロの風景とは逆の、ことばが通りすぎたあとの風景として、万人の理解できる確かな道が観えてくる。決して「奥の細い道」などではなく、マグのなかのことばが彼岸にまで連なった、広い風雅の道が拓けている。 金魚も、故郷の列島から遠く離れた、地球の自然という見地から見ればとんでもない僻地のこのニューヨークで、「かわず」=帰らずののたれ死にはしたくない。おなじマグから飲むグローバル・ブレンドが、しばし80分の世界旅行に連れていってくれる。
by nyckingyo2
| 2012-09-17 01:54
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