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牙を剥いて この大きな鏡 いたるところぼろぼろになったこの巨大なアメリカという鏡に向って 吠えている そこにはむろん 吠えている自分たちの姿が映し出されているはずなのだが その怪物鏡の壊れた部分には大量のスコッチテープが張りめぐらされ 被写体は ぼけかすみゆがみ 醜悪に染まり とうてい自分が吠えている姿とは思えない なんだか見知らぬ異星人が吠えているような… 古ぼけて恐ろしげな大鏡 ほんの数十年まえ 9-11や湾岸戦争 あるいはヴェトナム戦以前は 新大陸の名のとおり 鏡にあいた穴の数はまだ少なく だだっぴろい鏡面の ほんの部分を観るだけで 自分の顔が克明に見渡せたのだ どなたも念入りにお化粧し 毒林檎をもった魔法使いばばぁとして世界にデヴューする 鏡よ 鏡よ 鏡さん… ニューヨークといういわば裏側から 至近距離で その巨大な鏡を眺めると まさにラウシェンバーグの作品のように 瓦礫ばかりでできあがった 美しさなどどこにも見当たらない荒れ果てたいちめんの荒野 その荒野のすざましさが この地球星の浮き世を如実に映し出しているゆえ 鏡のうちがわに住む者はみな ひょっとしたら ほんとは鏡は美しいのではないか と言いはじめた 巨大な美しい鏡としてのアメリカ 2009年に100歳で他界したクロード・レヴィ=ストロースは、若き日に南回帰線を越えた場所から、この新大陸を分析する。 この巨大だという印象はアメリカ特有のものであって、都市でも田舎でも同様に、いたるところでそれを経験する。わたしは中部ブラジルの海岸を前にしたときでも、高原の上でもそれを感じた。ボリヴィアのアンデス山地でも、コロラドの岩石地帯でも、リオの周辺地でも、シカゴの郊外でも。いたるところで誰もがこのおなじ衝撃にとらえられる。これらの景観は他の景観を思い起こさせる。そしてこれら街路は街路であり、これらの山は山であり、これらの河は河である。それではあの故国喪失の感情はどこから来るのだろう。単純には人間の背丈と物の大きさとの関係が、ふつうの尺度が取り除かれるぐらい膨張させられていることからくるのである。後になってアメリカに慣れてくると、諸関係の間に正常な関係を再建する適合作用を、無意識のうちにおこなっているのだ。(クロード・レヴィ=ストロース「悲しき南回帰線・上」室淳介訳 講談社学術文庫 p-119) 特に平坦でだだっぴろく とり立てるものの少ない北アメリカ大陸において ヨーロッパから訪れた攻撃的人種により 巨大に立体化した鏡が建てられる できたてほやほやの真空蒸着鏡は 当然のことながら そこにあるものを正確に映す 美しいものは美しく 醜いものは醜く 平坦でだだっぴろい大陸の風景は 鏡の面積をさらに拡大させる 原始的攻撃性は たしかにある種の宇宙美を共有している その攻撃性は 子供のように無邪気な「アメリカ的善意」とともに 太陽の進行と同じく 西へ西へと 光を紡ぐ 司馬遼太郎は「アメリカ素描」のなかで アメリカ文学は肉塊をむしり取るような握力をもっている と再三書いている スタインベックしかり ジャック・ロンドンしかり 62年のソニー・リストン vs フロイド・パターソン戦 たった二分六秒のボクシングの試合の興奮を 「一分間に一万語」 二万数千語に活写したノーマン・メイラー そのころ列島では 寺山修司が 「マルのピアノにのせて時速100キロで大声で読まれるべき65行のアメリカ」 を詠った アメリカを詠ったそれらが 無邪気で攻撃的な文学で ラウシェンバーグやポロックは多分 無邪気で攻撃的な美術 マイルスもバードも 無邪気で攻撃的な音楽 世界最大級のギャラリーが林立するチェルシーに足を踏み入れると 樹木や岩のかわりに 人のあふれた荒野を連想する 無邪気で攻撃的な荒野 そこはわれわれの肥大化した自我を映し出す大きな姿見 食べちゃうぞぉ 鏡を観つづけることが 自分を食べているということに なかば気づきながら どうしてもそのギャラリーから離れられない 司馬遼太郎はアメリカの地でくりかえす この文明の基礎は 世界中の人間に安く豊かに食物をあたえることだ ということがわかる 同時に アメリカ的善意という 国家を越えた世話好きも理解できる たれにたのまれることもなく 世界の世話をやかねばならぬと思っている さらにはその善意が容易に世界性を帯びる またその善意は無邪気なほどに戦闘性をも帯びる 世界史上、かってこういう国は存在したことがなかった (「アメリカ素描」新潮文庫 p-393) それから四半世紀 地球はそのアメリカ的善意に席巻され その善意はどこでもいつでも善であるわけもなく 息もしにくくなるほどのその善意に ひとびとは悲鳴を上げはじめる むろんその善意がコロリと戦闘性に変換するゆえに ひとびとはその善意を反射する大きな鏡に向って石を投げる 石で鏡にあいた穴から 飛び出したのは だれかの人物像などではなく 迷彩をほどこしたマシンガンの銃弾 それは大鏡の近くだけではなく 屈折した光が 屈折したまま 亜光速で 地球の裏側にまで飛んでいき 人びとを抹殺する 命中率はすごい 火星探査機キュリオシティを上陸させるには 地球の裏のはえの目玉を射抜く精度がいる さんざん世話をしてやったのに 石を投げつけるとはなにごとだ もともとこの条件反射のはじまりであった アメリカ的善意は どこかに霧散してしまい また戦争がはじまる だが 国家というタガを外した この国に住む人びとは 底ぬけに明るく 他者を愛しつづけている どうかおぼえていてほしい と 鏡の国のなかからの声が聞こえる 哀願のように どうかおぼえていてほしい と その鏡の国のなかからの懇願の声さえも 反射光に乗って地球に飛び散る さっき鏡に向って石を投げた人びとの前にたどり着いたとき 声はもろくも響きを変え 爆音・銃声の乱反射 とど うか ぼえてい おてい ほし☆ Base Sounds: とどとど うかうか ぼえてぼえ いおいてい ほし☆ぼし☆ そして ブルカや黒子のマスクと対抗し かたちだけの善意のほおかむりをした アメリカ発のグローバリズムというもので この国家は 兵器なしでも世界に向って攻撃できるようになった 大量の枯葉剤を造り ヴェトナムに撒き散らしたモンサント社は 次に世界最強の除草剤と その除草剤に強い遺伝子組み換え種子を 世界に蔓延させた わが心のインドでは その遺伝子組み換え種子のために 過去16年間で25万人の農民が自殺 借金して買った農薬を飲む悲惨 遺伝子組み換え種子は高価で、栽培に大量の水が必要 インド農業を世界市場に開放しようとした経済自由化の波は 新自由主義によるホロコーストに転じた モンサントはアメリカやカナダの有機農家をも駆逐する 風で飛んできた遺伝子組み換え種子を 買わずに育てたと恐喝状を送りつけ 訴訟に勝ち 多くの有機農家が破産する やはり悪魔ビジネスのベクテル社は ボリビアの水道事業を買い取り 料金は2倍にハネ上がる 収入の3分の1が水道代という地域もあった しかたなくスラムの貧民は、雨水を溜めて使うが 「天のめぐみ」オリジナル・ブランドの利用権もわが社ベクテルのもの と雨水にまで料金を徴収した これらの企業の発想は もともと 世界中の人間に安く豊かに食物をあたえる というアメリカ的善意の原則からはじまったはずだが 信じられないほど安くてまずい 遺伝子組み換えコーンを まるかじり試食してみて そのなかにはもはや 善意のかけらも残っていないことに気づく やさしさや愛や慈悲などというものが すべて きれいさっぱり 乱反射して虚空に消えている アーティフィシャルな鏡を透過した食べものは 不思議な未来性を感じさせながら それを食す人間たちをも透過する そのコーンの味を「品質」ということばでたとえれば それは人間のためのものではなく ロボットか機械のための「品質」のように味わえる もともと人間のために「高品質」であることは かって 長いあいだ アメリカ文明を象徴するものだった と 四半世紀前の司馬遼太郎は語りつづける 「品質」がアメリカにおいて思想として、また方法論として確立したのは、第二次大戦下においてであった。品質に対する強力な統御は軍の指導によった。品質の管理については、むろん高度の技術と熟練職人の伝統をもつ国においてごく"文化的"なレベルでおこなわれてきた。ドイツにおけるレンズ、カメラ、スイスにおける時計がそうであろう。 さらには、近代工業以前ながら、日本は江戸期、大工や指物師の世界で"文化"としての品質思想は濃密に存在した。(中略) が、それらはあくまでも個々の情熱と自負心と技倆に依存した"文化"であって、法網のように普遍性のある"文明"ではない。第二次大戦下のアメリカは、品質管理というこの課題を、お得意の思想として"文明化"したのである。つまり、戦争に必要な兵器、機材などあらゆるものにおいて、品質にバラツキがあっては戦いそのものに影響をあたえるという必要から生まれたものだった。それ以前のどの国もこの品質管理(QC)というものを思いつかなかった。 その思想と方法が日本に導入されたのは、戦後十年をへた1956年ごろで、その後、日本の工業社会ではQCが職場の末端サークルにいたるまで普及し、日本産業の基本的性格の一つになった。 …それらをアメリカの借りもの、模倣、改良、歪曲と呼ぶのもよいだろう。しかしとにかく日本の成功物語のなかには多分にアメリカ的要素が含まれているのだ。 しかし品質管理に関するかぎり、アメリカが、いかにも"文明"主義的性格(普遍性を偏好する性格)の国らしく開発したこのことが、戦争(第二次大戦)が終わると、法や監督による規制を捨てた。つまり企業ごとの"自由"にまかされた。日本は従来の文化にそれを適応する遺伝体質があったのか、貝が自分のカルシウムで真珠をつくるように、自分自身の"文化"にしてしまった。日米のこの差異は大きい。(「アメリカ素描」p-251-2) この鏡面の乱反射はますます激しくなった やがて国家というものが鏡の表面に出ない グローバリズム経済というものが 地球を席巻し 日本も国家による品質管理がむずかしくなった グローバル企業は自由意志で 人間のためではない品質を考え 儲けた もちろんグローバリズムなどとといっても 国家が消えるわけもなく その我欲のみが鏡面の光とともに 亜光速で突っ走る とうとうアメリカはモノを作らずにカネを稼ぎはじめた そんな資本主義など聞いたこともない いや いままでは聞いたことはなかった モノでないものを モノとして売ればいい 最初はモノでなかったものが 鏡の乱反射でモノに変身する これはモーカリまっせ そしてそこからの 乱反射が地球を巻き込み 地球を一周して乱れきった光が ニューヨークにあるいちばん巨大だった鏡 WTCの2棟の鏡ビルを崩壊した ほんとうに飛び込んだ旅客機の起こした火災で ふたつの巨大な鏡が崩れ落ちたのだろうか 世界に与えつづけた極端な乱反射が 巨大な鏡の金属疲労をまねき 崩壊したのではないのか あるいは鏡の国の内なるちからが 崩壊させたという人たちもいる (映画「ZERO An Investigation Into 9/11」約1時間45分・英語版にリンク) そしてその跡地には 更なる鏡の蓋然的様相を呈した 新しい鏡が建ちはじめた ぼくはいま 鏡の国のアリスのように 時間も あらゆる対象さえも 千変万化をつづける 鏡の上を歩いている ヴェトナムが悪化しはじめたころ 新聞の社会面は不可解で残忍な犯罪を報じる度合いが多くなった 1960年ごろまでのニューヨークのセントラルパークは 若い女の私がぶらぶらと子供づれで歩くことのできる平和な公園だったが 10年後にはそういった話は昔語りになった (大庭みな子「まわり燈籠』) アメリカ文明ほど短時間で変わりやすく たえず落ちつきなく変化しようとしている文明は かってなかったのではあるまいか (司馬遼太郎「アメリカ素描」p-257) 再び安全になり まるで鏡のように静まりかえったセントラルパークで この大鏡の行く末を考える 実体のない鏡面反射経済はつづき 業を煮やした若者たちは ウオール街に抗議する こんなわけのわからない国のことを 考えるだけ無駄だ という声と そんなユートピアがこの世に存在できるのか はなはだ疑問だと感じながら 乱反射のない すばらしい国に変身したアメリカを ひたすら夢みる という声 そしてそれらの声の乱反射を聴きながら 今日のぼくの鏡上散歩が終る あるいはアメリカは 自ら 世界に鏡の反射光を分け与えることだけに専心し 他の国から膨大な量の愛の光を もらいつづけていることに 気づきもしていないのかもしれない そして あなた この巨大なアメリカという鏡を 遠くにある小さな星から 観つづけているあなた 星の王子さま そこに映っているのは ほかならぬ あなた自身なのだからね 「この巨大なアメリカという鏡」 了
by nyckingyo2
| 2012-10-12 08:51
| 浮遊的散文詩歌
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