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5月25日の世界同時アクション「March Against モンサント」はアメリカ国内だけで200万人以上が参加、世界中で52か国・436都市で行われた。アジアでは日本のほか、韓国・インドネシア・インドが参加した。南米は脱モンサントが加速し11都市で開催、モンサントの直接攻撃を受けているインドや、アフリカ侵略の拠点である南アフリカでもデモが同時開催された。 マンハッタンのデモは雨模様のなかユニオン・スクエアに大勢が集結した。メイデーのときの顔ぶれも多数見かけたが、家族の食を心配する女性、家族づれが目立った。行進後ワシントン・スクエアで大パーティー。その後に行なわれたマミーたちの総決起集会はソルドアウトで入れなかったが、そのころにはみんなの願いが天に通じ、太陽神が顔を出された。 モンサントは国際銀行家=多国籍企業=軍事複合体の中核企業のひとつだから、このような動きが全世界で同時に広がっている事実はすごいこと、とNavdanyaのヴァンダナ・シヴァ博士は語る。 「静かな革命が始まった。モンサントの地球乗っ取り計画のおかげで、世界中の一体意識が共鳴しはじめている。」 ● 中国がアメリカからの遺伝子組み換えコーン3隻分を処分した。 ● ハンガリーが1000エーカー以上のすべてのモンサント・コーン畑を焼却した。 以下、例によって多層的あめりかむかしばなしと直感によって、モンサント的思考が、いかに地球人類の食を極端にアンドロイド化しつつあるかを、これまでとは少しちがった角度から考察してみたい。 ロサンジェルス国際空港に降りて、生まれてはじめてこの大陸を歩き出した最初の食事は「ジャイアント・アボカド・バーガー」だった。極彩色のすべてが巨大なお菓子のような食べ物を、しばらくただ呆然と見つづけていた。上陸直後の最初のカルチュアー・ショックであった。それから30年後の現代の日本には、本格的にアメリカナイズされた巨大な食べものが存在しているのだろうが、ぼくが日本出発直前に気取って食べていた表参道にあった「アメリカンサンド・春樹風」など、足下にも及ばないクオンティティーである。いったいどうやって顎をはずさないで噛りつけばいいのか、ぐぅの音も出ずひたすら「まいったなぁ!」であった。当時すでにマクロビオティックの食事法に興味のあったぼくには、農薬汚染や肉食の弊害といった問題が意識の上層をちらりとかすめたことは確かだった。が、この時点では、アメリカの食事が、大きさと量の問題以外に現代ほどの危機感を持って「まいったなぁ」と感じたわけではなかった。 そのキャフェテリアと称する体育館のような巨大レストランで、巨人たちがそれぞれのジャイアント・バーガーにむしゃぶりついている。前回に引き続いて巨人の国の話になるが、まわりの巨人たちの顎周辺はわれわれのものと比べてさほど大きいわけではない。多少頑強な構造の顎を思い切りこじ開けた口のまわりに、アボカドとトマトケチャップがベトベトに着いているが、だれも気にしない。それは食事というより、その巨大なお菓子との「格闘技」のようにも思えてくる。その印象的な光景を思い出そうとしていると、それまで本棚で眠っていた、司馬遼太郎の書いたアメリカ文学評と共鳴した。かれがカリフォルニアを旅したときの、スタインベック「怒りの葡萄」を題材にしている。 アメリカの小説というのは、まず文章がいい。ともかくもこの国の小説は、リンゴを丸かじりするように、前歯を現実という果肉に突きさし、皮ぐるみ、つまりはコトバぐるみ、その咀嚼の快感まで言語化して食ってしまう。こういう小説から見ればヨーロッパの小説や漱石、鴎外、志賀直哉、魯迅などというのは、なんとつつましくお行儀がいい作品かとおもわざるをえない。文化の重さのなかにある日本やヨーロッバの小説では、リンゴをいきなりかじるよりもまずながめねばならず、さらにはその色を楽しまねばならず、ときに床の間の茶掛けでもほめるようにリンゴの美しさについて感想をもらしたりせねばならない。その上で—これは日本に限っての食卓習慣らしいが、—ナイフでたんねんに皮をむき、ハイ、これがリンゴです、というのである。 アメリカではちがう。他のアメリカの作家もそうだが、スタインベックも、現実という牛肉の大塊にいきなり五指を突きさし、肉塊をむしりとってずしりと台にのせる。(司馬遼太郎「アメリカ素描」新潮文庫 p-30 ) この文章は食べ方と文学の比較談義だが、食文化と国民性とほぼ同義に捕らえることができる。 昨年、ヴィレッジの映画館でほぼ一年近くのロングランを記録したアメリカ人監督の映画「Jiro Dreams of Sushi」。 「数寄屋橋・次郎」の寿司職人二郎さん(82)がにぎる完璧寿司がアップになる。寿司好きのニューヨーカーは生唾の連続。ニューヨークにもカウンターに座るだけで$300.という寿司屋は何軒かあるが、風格がちがう。久しぶりに館内に東京の緊張感が甦った。 上記の野蛮な食べ方をほこっていたアメリカ人が、いまやすぐれた食の文化を吸収するため、フィルムのなかの食べられない寿司にくぎづけになっている。素材になった魚や米に対する敬愛や、自然に対する感謝が寿司のかたちとなって表現されていく。二郎が最終的ににぎる一貫は、まるでアーティストの画竜点睛、寿司に入魂の儀式をしているようだ。当たり前のことだが、そこにはスタインベックのように、牛肉の大塊にいきなり五指を突きさし、肉塊をむしりとるような攻撃性はみじんも見当たらない。資本主義がさらに進化しつづければ、アメリカ人の食もソフィスティケートし、進化しつづけるはずだった。 どうもモンサントのような企業が蔓延ってしまったプロセスを、食文化の方からだけで語ろうとするのは無理がある。以上の食に対する日米のイメージを頭に置いていただいて、司馬遼太郎の同じ本の巻末に移る。四半世紀前に、西海岸からニューヨークに移動した司馬氏は、ウオール街の異常な投機の話を聞いて驚いた。投機家たちは頭脳を巨額のカネで買い、危険でないシステムを作り上げていた。 投機。むろん投資ではない。三者(銀行・証券・保険)とも投機をするためにウオール街にオフィスを置いているのである。バクチでありつつもソンをしないシステムを開発しては、それへカネを賭け、カネによってカネを生む。 (アメリカは大丈夫だろうか)という不安をもった。資本主義というのは、モノを作ってそれをカネにするための制度であるのに、農業と高度技術産業は別として、モノをしだいに作らなくなっているアメリカが、カネという数理化されたものだけで(いまはだけとはいえないが)将来、それだけで儲けてゆくことになるとどうなるのだろう。亡びるのではないか、という不安がつきまとった。(同書 p-377) そしてかれが明日ニューヨークから日本に帰るという日の「アメリカ的善意」とタイトルされたエッセイ。日本の新聞の駐在員、平田明隆氏との対談である。 アメリカはその大原則である自由経済を守っているために、世界中の商品がなだれ込んでいる。19世紀には市場としてしか欧米人の目に映らなかった国々が、高度な商品生産をはじめて、逆にアメリカを市場にしてしまっているのである。この波に対しもし障壁を設ければ、アメリカの自殺になるし、世界経済の灯も消えてしまう。結局、アメリカは高度技術の分野以外の工業の多くを捨てていくのではないですかと問うと、「私もそう思います。普通の概念での工業社会からサービス産業の社会に変化しつつあると思います。」 この旅行記の記述は、いまから四半世紀・25年以上前のものだということをくり返しておく。 さらにそのあと(平田氏は)ふしぎな話をしてくれた。食用植物のタネの話である。アメリカの農務省は、世界じゅうのタネをとってあるというのである。各地に大規模な採種圃場(ほじょう)があり、その野菜・穀物の栽培をその国がやめてしまっても、アメリカのそこに行けば採種用に栽培しつづけてつづけている。「世界中のどの国でも、研究のためにどういう植物のタネがほしいと頼めば、タダでくれるのです」そういう国が世界じゅうのどこにあるだろう。この一点でも、アメリカという文明の基礎が、人間に安く豊かに食物をあたえることだということがわかる。 同時にアメリカ的善意という、国家を越えた世話好きも理解できる。だれにたのまれることなく、世界の世話を焼かねばならぬと思っている。さらにはその善意が容易に世界性を帯びるというおもしろさもわかるのである。またそのアメリカ的善意が無邪気なほどに戦闘性を帯びるという面をもふくめ、世界史上、こういう国がかって存在したことがなかったことを思い、あらためてテーブルのまわりを見まわした。(同書 p-393) こうして司馬氏のはじめてのアメリカ旅行は終わるのだが、25年後の現代の視点で読みなおすと、この好意的に書かれた植物のタネの話が、その近い将来に起こる大きな国際的企業犯罪の「タネ」となっていることがわかる。この本が書かれた時点で、モンサントはすでに遺伝子組み換え種子も生産をはじめていたし、植物のタネはケミカル・バイオロジー産業の素材であった。現代ではタネを管理する米FDAとモンサントの癒着が問題になっているが、当時の一旅行者としての司馬の視線が、その国の未来を暗示している。 基本的に親アメリカの姿勢で書かれたエッセイ集だが、後半の東海岸編では、当時すでに行きすぎてしまった資本主義を危惧する記述が多くなる。アメリカ的善意は容易に世界性を帯び、無邪気なほどに戦闘性を帯びる、(度を越えた)世話焼き。言葉は徐々に辛辣になる。すべての人間に安く豊かに食物をあたえることが、アメリカ的善意の発露だったということが理解できるが、それが、超功利主義・プラグマティズムと結びついて、現代の世界に大きな問題を投げかけつづけることになった。 先年、シベリアのツンドラから発見された3万年前の植物の種子を発芽させることに成功した、というニュースを聞いた。日本でも2000年以上前の古代ハスの実が発芽・開花した例がある。足立育郎著「波動の法則」には、植物のハス、そして動物のクジラやイルカは、人間よりはるかに調和のとれた原子核の集合体を持っている、と記されている。ハスのタネのなかに秘められつづけた生命遺伝子の情報が数千年いう膨大な時空をこえて開花する。まわりの発芽条件が整うまで、そのハスの生命の素はこの世に生まれ来るのを弥生の時代から土の中でじっと待機していたのだ。せいぜい百年という人の寿命から考えると、遠くの恒星の光を見つめて悠久の宇宙を想うことと似ている。ハスの葉のうえで瞑想されていたというブッダの姿からの連想で、どこかでその大宇宙を行き来する輪廻転生のイメージも交錯する。 さらに神秘的な話をこの足立育郎著「波動の法則」のなかに求めれば、地球星のなかの素粒子というものは、人体の細胞を含めたすべてが、どこかほかの宇宙からテレポーテーションされてきたもの、としている。その素粒子(電子や中性子)は楕円形のかたちをしており、そのなかを回転球体であるクオークが立体的に超高速スパイラル回転をしていて、その立体形状は両端が円錐形で、まるで「植物のタネ」のようである。さらに素粒子の最小単位を東京ドームの大きさに例えれば、原子核という粒子はその真ん中にいるピッチャーの持つ野球ボールほどの大きさしかないという。やはりボールの大きさの電子がその周りを飛び回り、その外周軌道が東京ドームの大きさになるだけで、原子の構成要素はほとんどが「空」ということである。われわれが物質と呼んでいるものは、ほとんどがそのように「からっぽ」で、その最小単位の立体像は「植物のタネ」のような形なのだという。さらに足立氏はそのなかにある陽子は「意志」で、中性子は「意識」だ、ということを断言されているが、話をこれ以上複雑にさせないためにいずれ別稿に書きなおすつもりである。*植物のタネの心臓部に存在する「無」についてのウパニシャッドの逸話も読み流してみてください。 天からの授かりものである「タネ」を蒔き、育った植物を収穫するという「農耕」をはじめた人類は、収穫物からいちばんいいタネを選んで次の年に植えることを繰り返し、豊かな稔りを生みだしつづけた。すべての農民がこのタネを採取することが生存の基盤だった。 が、モンサント社は効率的に収穫量を増やすために、このタネの遺伝子の一部を異様に歪め、さらにターミネーター遺伝子と称し、蒔いたとたんにタネ自身が自殺してしまって発芽できない1世代限りのタネまで開発した。世界中に安く大量の食物を供給するという発想が、いつのまにか極利己的で自然と対立した真逆のものになった。遺伝子を組み換えることで種全体の特許を取得し、商品として独占。その種を自家採取して植えたり、勝手に花粉が飛んできて交雑しただけで「知的所有権違反」で訴え、多額の賠償金を請求する。モンサント社は世界中の種苗会社を買収し、非GMのタネを大量に仕入れることができないため、生産者は毎年モンサント社の種を買うしかなくなってしまった。 第一次大戦後に、社会有機体経済学を提唱したルドルフ・シュタイナーは、たとえば土地という単なる自然と、資本が結びつけば、地価と名づけられた「虚構の価値」が生まれる、と説いた。土地をよりよいものにするのは労働でしかありえず、地価が上がったのは土地そのものの価値が高まったからと考えるのは馬鹿げている、と語る。かれは土地に金銭を払うことすら社会的な嘘であると考えていた。 ところが実際の人類の歴史とは、それがはじまったかはじまらないかの時点で、土地という地球の表皮の強奪戦のために殺し合いがくり返され、あらゆる場所の土の所有権はそのときの権力者に移行しつづけた。小作人は、地主などという権力者に媚びへつらうだけの人間の持つ土地に、一生縛られた農奴でありつづけた。現代では不動産などと呼ばれ、たとえ地震で揺れても、原発事故で汚染されても、土地の価値だけは変わらず存続するという思い込みがいまだにまかり通っている。おまけに地球はおろか月の土地までが売りに出されるという馬鹿馬鹿しい世の中になった。そして世界各地で不動産バブルというものが起こり、実体経済と関係のない妖怪が巨大に膨らんではじけた。土地を買うこともできなかった貧しい庶民が、なぜかこの土地バブル崩壊の最大の犠牲者になった。 さらに大資本は、土地と切り離せないおなじ自然である生命の素の「タネ」を独占することで簡単に継続できることに気づいた。遺伝子組み換え種子の効率的農業で安い作物を生み出すには、小規模の農家では立ち行かない。農民にとってふたつの最も大事な自然は、完全に大資本に牛耳られることになる。さらに悪いことには、モンサントのタネが育ったその結末として、人びとの口に入る時点で食物の毒性が極端に増加することである。インドではモンサントの遺伝子組換え綿花のタネを育てるのに大量の水が必要なため、数十万人の農民が自殺に追い込まれた。購入したモンサントの農薬・ラウンドアップを飲んで死ぬという悲惨。モンサント社は、インドでのネガティヴな発想から、食料となる植物の糧である「水」の支配にも乗りだした。タネと水という人類が平等に享受できた自然の恵みを商品に変え、独占しようというのがモンサントの世界戦略。水ときいて、同じ体質の悪魔企業ベクテルは、ボリビアで水道事業をはじめた。値上がりした水が買えない庶民が、バケツに雨水をためて飲んでいると、ベクテルは自然の雨水もわが社のものだから金を払えとボリビア政府に迫ったという?? 大企業は土地を汚し、タネを汚し、大気を汚し、水を汚してさらに増えつづけている。 原発事故による大規模な大気汚染・水汚染・土地汚染もまったくおなじ構図で行なわれたといえる。映画『未来の食卓』のジャン=ポール・ジョー監督は、原発と遺伝子組み換え作物(GMO)は、どちらも第二次大戦で使われた戦争のための技術から生まれた兄弟のようだという。原発は原爆から、GMOは毒ガスから(毒ガスをもとに除草剤が作られ、それに耐える植物が遺伝子組み換えで作られた)。どちらも自然を支配しようとする技術であり、人や環境に取り返しのつかない被害を与えている。現にモンサントは、ベトナム戦争時に枯葉剤を大量に製造。ジャングルに隠れてゲリラ戦を展開するベトコンに手を焼いたアメリカ軍は、ジャングルを枯らし、農業基盤を破壊する枯葉剤を飛行機から大量に散布した。そのなかに含まれていたダイオキシンに四百万人のベトナム人が曝露し、たくさんの奇形児が生まれたことはご存知のとおりである。 環境活動家の田中優氏は、先日の講演で「大企業は上から下への構造を作ることで、人を支配している。電気は電力会社から買うしかない。この支配の代表が、エネ(ルギー)とカネ(金融)とタネ(食糧)です。」と実にうまく洒落た。感心している場合ではないが、この三つはまったく同根で相似形の現代社会の支配形態である。「でも、これらは下から上に自給もできる。今はまさにその転換期です。」 この稿のタイトルは、フィリップ・K・ディックのSF代表作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Do Androids Dream of Electric Sheep?)を文字ったもの。ピンと来ない人も、82年、ハリソン・フォード主演の映画『ブレードランナー』(Blade Runner)の原作といえば、納得していただけるかも。自らディック狂を名乗るぼくは、学生のころのハヤカワSF新書版からの愛読書だが、日本のディック人気はこの映画の方をきっかけに急激に盛り上がることになった。 映画では、機械を連想させる「アンドロイド」という言葉は、生化学用語のクローン技術の「細胞複製(Replication)」から取った「レプリカント」に変更された。個人的には、サスペンスとして絶妙に再構成された映画も好きだが、若いころから親しんだ、核戦争後のサンフランシスコが舞台の小説の方により執着がある(映画ではLA)。映画と小説の差は「アボカド・バーガー」と「次郎寿司」以上の差があるのではないか、などと思っている。映画を観なおすほどに、原作小説のすばらしさが引き立つ。以下小説中心のあらすじ。 核戦争のあと、放射能に汚染された地球では、生きている動物をペットとして所有することが地位の象徴となっていた。人工の電気羊しかもっていなかったリックは、本物の動物を手に入れるため、火星から逃亡してきた奴隷アンドロイドの生き残り6人に賭けられた懸賞金目当ての狩りをはじめる。核戦争で自然は壊滅的打撃を受け、ホンモノの生物は昆虫一匹でも法によって厳重に保護されている。一方本物そっくりのアンドロイド生物も多種類存在し、人間そっくりのかれら模造人間は感情も記憶も持ち、自分がアンドロイドであることさえ認識していない者もいる。主人公リックは、生きものへの虐待の共感度を測定するテスト(感情移入度測定法)によってアンドロイドを判別し殺す、賞金稼ぎ=バウンティ・ハンターである。この世界での生物は無条件の保護を受ける一方で、逃亡したアンドロイドは発見されれば処分される。物語は、高度な感情と情緒を持ったネクサス6型と呼ばれる新型アンドロイドや、本物の人間であるにもかかわらず、極端に虐げられた者の描写を絡めて進行する。 残虐なアンドロイド殺戮のサスペンス・シーンの連続に、一見して人間同士や人間以外のものを差別する、核戦争後のひどい世界を描いているようだが、原作者フィリップ・K・ディックの意図はむしろ真逆の方向にある。日本語文庫版の訳者あとがきで、ディック自身が別の短編のために語っている言葉を引用する。 わたしにとってこの短編「人間らしさ」は、人間とはなにかという疑問に対する初期の結論を述べたものである。…あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれだけ「親切」であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこに行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない。 物語には、人間ではあるが放射能汚染で犯された、ピンボケと呼ばれる精神障害者、気のいいイジドアが登場する。かれはバウンティ・ハンターの標的であるネクサス6型アンドロイドたちにさえ馬鹿にされるのだが、自分に口をきいてくれるという一点で、アンドロイドたちをかばう。人間とアンドロイドの差を超えて、被差別者同士の連帯を描いている。ハンターのリックも最後にアンドロイドを愛するようにさえなる。 ディックの綾なす世界は、初期のアンドロイドやロボット・テーマのSFに大きな疑問符を投げかけた。 人間は自分たちが耐えられない辺境惑星の重労働のためにアンドロイドを作った。かれらが進化し、その内部に高い感受性と情緒が生まれ、かれらは自由を求めて火星を脱走する。かれらの能力がネクサス6型のようにある意味で人間以上になったとき、それが機械であるという理由で簡単に壊してしまっていいのか、という疑問符。そこに登場するホンモノの人間たちも、ひょっとしたら自分もアンドロイドではないのか、という深い懐疑に苛まれていく。 そしてその種の懐疑は、その物語を読んでいる現代の人類の読者、われわれの精神にも忍び寄り伝染する。猛烈な効率社会と功利主義のプレッシャー、機械に接しつづけ、機械のように働き、自然人類としての精神が大きくゆがめられていく。「ぼくたちは確かに人間として生まれてきた覚えはあるのだが、行きすぎた資本主義=タネ・カネ・エネに飼いならされてしまい、もはやアンドロイドになってしまっているのではないか」と。 作家のアンガス・テイラーは、75年に書いたディックに関するエッセイのなかでこう述べている。 ディックにとって、アンドロイドとは、内面的に疎外された人間 —つまり、分裂症その他どんな精神病でもいいのだが、現実の世界(人間的な関わりあいと感じ方の世界)に接触できなくて、内にとじこもり、機械的な生活を送っている人間 — の象徴なのだ。…この新しい観点に立てば、アンドロイドが天真爛漫さと悪意とを同時に持ち合わせ、自分の正体を知っているときもあり、知らないときもあり、ほとんど人間そっくりでありながら、人間社会にとっての潜伏的な脅威であることも、決して矛盾ではなくなる。 PCもネットもまだない時代に書かれた評論だが、のべつまくなしにPCやスマフォのまえで、ネット世界をみつめつづけるわれわれ現代の疑似アンドロイドを風刺しているような錯覚に陥る。人間的な関わりあいと感じ方の世界に接触できなくて、内にとじこもり、機械的な生活を送っている人間 —ネットオタクでなくともその傾向は顕著で、現代に棲む人間のほとんどがアンドロイド性精神障害に陥っているのではないか。つい数年前までエンピツやペンで文字を走り書きし、eメイルやケータイやスカイプでなく直接会って談笑し、仕事もしていた「人間たち」はいったいどこヘ行ってしまったのだろうか。そしてほとんどアンドロイド化してしまった現代人には、遺伝子組み換え食品がお似合いだと言わんばかりに、モンサントの横暴はつづく。 いままでのNY金魚のなかでディックの小説を引用したものは、高い城の男とパーマーエルドリッジの三つの聖跡がある。 Hunter Björk if travel is searching and home has been found i'm not stopping i'm going hunting i'm the hunter i'll bring back the goods but i don't know when さすがのモンサントも、いまのところ牛自体の遺伝子組み換えやクローン牛などは製造していないが「遺伝子組み換え牛成長ホルモン」(rBST−recombinant Bovine Growth Hormone・ポジラック)なる薬品は認可が下りて製造中。全米の牛の約30%が投与されている。このホルモンを子牛に注射すると非常に早く成長し、飼料の効率がとてもよくなり、乳牛に注射すると通常より長く乳を出すため、ミルク量が増加する。が、投与された牛は乳腺炎にかかりやすくなり、ミルクのなかに膿汁が混入する。また炎症を抑えるために抗生物質が投与され、それがミルクに残存することが懸念される。さらにこのホルモンを投与した牛のミルクを飲むと、乳ガンや大腸ガンが発生しやすくなることが指摘されている。 そしてモンサントと牛の関連でなにより重要なのは、遺伝子組み換えコーンをほとんどの牛が常食していることである。モンサント関連のドキュメンタリーをあまりに多く見すぎて、どの映画のシーンだったか思い出せないのだが、GMOコーンを食べている牛の四つの胃に透明プラスティックの窓をはめ込み、消化の具合いを観察する映像があった。猛烈に固くてまずいGMOコーンは案の定、牛が反芻をくり返してもまったく消化されず、あわれ牛の胃壁は癌化する。朝食をきちんと食べてから見た映像だったが、自分の胃液が逆流してきた思い出がある。以来、ビッグ・マックも◯◯屋の牛丼も決して食べないし、食肉・牛乳を買うときは細心の注意を払っている。 すべての問題は、ディックのいうように「あなたがどんな姿をしていようと、どの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれだけ<親切>であるか」というところに帰着するような気がする。 国と結託して、ベトナム戦争時の枯葉剤の製造や、毒を以て毒を制しようとするモンサントの発想は、全人類にとってあまりに<不親切>でありすぎる。 牛に対して、家畜動物すべてに対して、コーンに対して、タネに対して、自分たちの食べるものに最大限の<親切>で臨んでこそ、地球生物の共存共栄がある。ディックは逝かれたが、残した物語のなかでさらに無生物であるアンドロイドにも親切にせよ、と言いつづけている。 クローン羊・ドリーと人間のES細胞がほぼ同時に発表され、そのふたつに強い衝撃を受けて研究をはじめた京大の山中伸弥博士は、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を生成する技術を開発し、2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。iPS細胞は身体のどの部分の機能にも対応して育つ。皮膚などにいったん変化した細胞が、生まれたころに逆戻りするという発見は生物学の常識を覆した。細胞の時計の針を巻き戻せることを示した「初期化 (Reprograming)」と呼ばれる研究は「まるでタイムマシンだ」と世界を驚かせた。生命の萌芽とされる受精卵を壊して作る胚性幹細胞(ES細胞)とはちがって、倫理面の問題からも特に欧米社会で高く評価された。 クローンやES細胞からの発想と聞いて、どこかに胸騒ぎがあったが、山中博士の言葉を聴いて、ディックのいう<親切>を実感した。自分が受賞したのは、先生であるジョン・ガードン氏の功績の便乗受賞だ、と実に謙虚に受けとめる。先人たちの血のにじむような努力の上にiPSはできた。「これから世界中で本当の治療への応用、創薬に向けて、iPS細胞を使っていただける環境作りに貢献したい」と抱負を語る博士のかぎりなく<親切>な言葉を信頼したい。確かにモンサント系の企業なども含めて、iPS細胞はこれから世界中で苛烈なる開発競争がはじまるのだろうが、創始者の人柄がゆく先々まで影響すると思う。なにより「毒を以て…」ではなく、自分自身の細胞を変化させ自分を治すわけだから、人間がきわめて自然に、自分という人間のままアンドロイド化(?)していくわけである。科学だけが先行してしまうことにいまだに危機感を持っているが、反モンサント運動を見ているかぎり、人間の精神や情念や倫理感がそれについていけないわけがない、とも思うのだ。人間を信頼することも、人間に与えられた特質、<親切>のひとつではないだろうか。 しかしながら、いくら信頼できるひとの手で創り出したiPS細胞も、創造主の創られた生命の原型におよぶものは決して出現しないだろうと信じる。仲間たちとともにNYC郊外のWest Chesterにある友人宅の庭を、日曜有機菜園として耕していることを、みんなの自信とともに報告したい。夏のあいだはほぼ2週間ごとの農作業で、とれたての野菜たちを太陽のもとで食べる。そのあとみんなの家庭に両手にあふれるほどのおいしい野菜たちを持ち帰ることができる。地球の土に親しんだあとの有機野菜のその味は、どのようにうまい写真や文章や絵でも表現できない「魂」がそなわっている。遺伝子組み換えや、化学肥料や、成長ホルモンや、GMOサーモンが、いかにばかばかしい「改良」かを、かれら野菜の味がすべてを語っている。 モンサントの悪行をもっともっと書き立てるつもりだったが、他のさまざまなサイトで充分なインフォメーションが得られるので、ここではこれ以上の重複抗議はしない。モンサントのような企業をを叩きつぶすいちばんの早道は、企業構成員や関係者の意識を変えていくことではないか。ひとつの多国籍企業には、網の目のように多くの人びとが絡んでいて、あるいはぼくたちのそれぞれも、それぞれのしがらみを引きずっていることになる。 先日、日本に遺伝子組み換え大豆を輸入している日本の某商社のNY駐在員とかなり突っ込んで話す機会があったが、明らかにかれが扱っている商品=GMO大豆が、かなり不自然な食べものであることを認識されていた。自分の置かれている矛盾だらけの立場に引き裂かれているような気がした。これからかれがどのように、どこまで行動するのかはわからないが、期待をこめて見つめている。 小さな意識を変革する、小さな意志、小さな勇気のようなものが、かれにも、もちろんぼくたちにも、それぞれに芽生えれば、そこから大きな改革が自然にはじまっていくのだ、というポジティヴな思いで、この稿を終わりたい。
by nyckingyo2
| 2013-06-23 10:31
| 悪魔の国からオニの国のあなたへ
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