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ナチス・ドイツがヴェルサイユ条約を破棄し再軍備を宣言して、第二次大戦の暗雲が漂いはじめた1935年、フランスで活躍していた建築家 / 都市計画家のル・コルビュジェは、当時のロックフェラー財団が創設したばかりのNY近代美術館 / MoMAの招聘で、はじめてマンハッタンの土を踏んだ。その約3ヵ月弱のアメリカ滞在の記録「伽藍が白かったとき」は前評判のわりにアメリカではあまり売れなかった。なぜならその本の副題は「臆病人国紀行」とされ、本の中の「摩天楼は小さすぎる」という謎めいた言葉が先行してしまったからだ。 コルビュジェは、招待された当のロックフェラー財団のことをこのようにこき下ろす。「だれでも知っていることだが、アメリカの億万長者、それは自分の銀行勘定の悪循環のなかで積みあげた黄金の堆積の犠牲者である。」 風刺と皮肉と、そしてそれ以上に圧倒的な、新大陸に対する羨望とあこがれを織り交ぜたかれの構築的エッセイは、決してアメリカ人に嫌われるものではないと思うのだが、新しきコンサヴァティズムが根づきはじめた当時のニューヨーカーの自負心の方が強固にすぎた。80年後のおなじMoMAでの回顧展の感想を織り交ぜて、根っから自然を愛したアーティスト「近代のダ・ヴィンチ」の姿を浮き彫りにする。 都市には木がない! 木、人間の友、あらゆる有機的創造の象徴。木、全体的構造のイメージ。完全な秩序にありながら、我々の眼には最も幻想的なアラベスクと映ずる魅惑的な風景。開かれた新しい手の、春ごとに数を増す枝の戯れ。葉脈の整然と引かれた葉。天と地のあいだにあってわれわれを蔽うもの。(中略)われわれの労働や気晴らしを囲む、都市における自然の存在。木、人間の何千年来の仲間! 太陽、空間、木、それらを私は、都市計画の基本的な材料「本質的な歓び」の提供者と認める。このように主張することによって私は、都市における人間を自然的環境と本質的感動の中に取りもどそうと考えた。木がなければ、人間は自ら創り出した人工の中にいるだけだ。時には荘重さを必要とすることがあるが、その場合、人間がその幾何学の厳密さ、純粋さ、力強さにおいて自己を主張することは正しい。しかし多くの場合、すべてが不調和で醜悪で獣的であるから、都市の一部または全体にわたって木がなければ人間は、衰弱した秩序の不安と宿命的な混乱の恣意の中に踏み迷い、裸で貧しいことを悲しむことになる。 しかし、マンハッタンの真只中には「セントラル・パーク」が保存されている。アメリカ人はただ金銭の征服を追求するだけだ、と批難して喜んでいていいだろうか? 私はマンハッタンの中央に花崗岩と木の450万平方メートルの公園を保存したニューヨーク当局の性格の強さに感心した。 セントラル・パークは、美しい建物 —高い摩天楼のアパート— に囲まれ、それらの窓はすべて、この思いがけない空間、木のない都市における唯一の仙境に向かって開いている。私はこのような莫大な財宝をマンハッタンの真中にそのまま触れずにおくということ、それこそ至高の市民的態度、凡俗を脱した態度、力強い社会のしるしであると思う。(ル・コルビュジェ「伽藍が白かったとき」岩波文庫 p-132) パークの大樹と話す ちょうどそのとき、セントラル・パークの入口近くの大樹が、そこからかなり遠くを歩いていたぼくに声をかけてきた。声といっても、その方向から吹いてきた一陣の風に揺れて、大樹がまるでシコを踏んだみたいに「ドスン」という音を出し、かしわ手を打ったようなしぐさがきっかけだった。その樹は、まるで地震にあったように総身を縦にゆすり、木の葉も一枚ごとに大きく揺れていた。こちらも立ち会わないわけにはいかない。樹の全身にある複眼のようなものと眼があったぼくは「かれ」が何を言いたいのかよくわかってきた。ほんの10分前まで、ぼくは2013年のMoMAでの「ル・コルビュジェ展」に観入っていて、その膨大な作品群に圧倒され、それらをアタマの引き出しに入れたまま、少しづつ吐き出しながらパークまで持ち運んできた。いったいこの地球星の表皮を覆っている、ひとが住む「空間」というものはなんだろう、と。 「つまり、君と俺のあいだにあるこの空気が『空間』っていうわけだ」と大樹。「でもこのままじゃそこに人間は住めない」とぼく。植物はあきれたように言い返す「でも俺たちはそこに決めたらずっとそこに住むしかないんだぜ。枝がなにかにぶつかれば、回避して新しい『空間』に向うしかない。」 こんなに大きな樹と話をしたのは、生まれてはじめてかもしれない。その大樹君の立っている場所と歩いているぼくとのあいだは、ほかのたくさんの樹木たちに囲まれた大きな空洞のようになっていて、その円錐形を合せたような空洞は、ちょうど巨大な「植物のタネ」のような形になっていた。空洞といっても、この惑星の空気さえもが濃厚でソリッドな密度の原子というものでできていると聞いた。 が、その空気の原子ひとつひとつの中身をみれば、実はやはりほとんど「空っぽ」なのだという。素粒子の最小単位をヤンキー・スタジアムの大きさに例えれば、原子核という粒子はその真ん中にいるピッチャーの持つ野球ボールほどの大きさしかない。やはりボールの大きさの電子がその周りを飛び回り、その外周軌道がスタジアムの大きさになっているだけで、そのなかの原子の構成要素はほとんどが「空」ということである。われわれが物質と呼んでいるものは、ほとんどがそのように「空っぽ」で、その最小単位の立体像は「植物のタネ」のような形なのだ。 ぼくと大樹のあいだの巨大な空気の層は、それが空っぽであるゆえに、音声やそれに準ずるものをよく伝達し、深いコミュニケーションができる。ブラックホールのように本当に濃密な世界では、異種生物同士の意志などどこにも動きようがない。まことにこの地球という星の上では、すべてが実に軽く動いていく。空気でできた巨大な種子型の両端で、ワイアレス(糸で繋がれていない)糸電話のように、ぼくと大樹はル・コルビュジェという名前を通して奇跡的に話が通じ、80年前にかれが歩いたおなじ道で「自然」について語りはじめる。実にゆっくりとした口調で。 「そういえばもうずいぶんまえに『コルビュジェ=カラス』と名乗る建築家がパリからやって来て、まだ若かった俺に、いまの君とおなじように語りかけてきたよ 。」ダブルべースのように低いその大樹の声は、多少しわがれてはいたが、しっかりとした言葉として聴きとれた。 また金魚の駄法螺がはじまったと思われるムキには、さらに感性的な説明として、ぼくがコルビュジェという大樹のような存在を慕いすぎたゆえに、無意識界や霊界との交信がはじまったことにしてもかまわない。故人の作品に感動したとき、そこに「かってかれであった存在」とのコミュニケーションが成り立つ、というのがこのブログを書きつづけている原動力となっている。触媒となる霊はその都度ちがう。いや、そんなに不思議なことを考えなくても、人間が木の実を拾って食べていたころには、樹と話することなど、当たり前の日課だったのではないか。自然の食物を手に入れるためにお金を払うようになってから、人間は他の生物とのコミュニケーションを極端になくしたように思う。現にこのパークで銀杏を拾っている中国人の老夫婦は、たえずそのイチョウの大樹に話しかけながらその木の実を収穫しているように観える。 「コルビュジェははじめてのニューヨークで、このパークの中の君たち樹木の数よりも圧倒的に多い、人間たちの住処のことを考えていたんだ。このキチガイ沙汰の密集をどのように整然とさせるか。」樹と自分の身体とのあいだの、巨大な植物のタネ型の宙空を観つめて、コルビュジェのことを話しはじめると、ふいに老子の次の言葉が、漢字入りの日本文字となり、その宙空を飛びはじめた。 木の葉とともに、セントラル・パークに、漢字が(?)飛ぶ。 30本の輻(や)が轂(こしき)のまわりに集まる それらの無いこと(個体性の無さ)から 車輪の効用が出てくる 粘土をこねて器をつくる その無いこと(器の窪みにおいて)から 器の効用が出てくる 家(壁)に戸口や窓をあける それらの無いこと(空っぽの空間)から 家の効用が出てくる (「TAO 永遠の大河(1)」星川淳/訳・めるくまーる社 p-368) この公園のまわりには、無数といっていいほどの人の住まいが、摩天楼という名の巨大な細長い空っぽのハコとして林立している。その佇まいたるや、まるでこれらパークの無数の大樹たちと対抗しているようである。それでもこの街に最初に来たときのコルビュジェは「ニューヨークの摩天楼は小さすぎ、そして多すぎる」と宣言して、当時のアメリカ人の度肝をぬいた。ひとつの摩天楼の容積をさらに大きくすることによって、そのまわりにさらに大きな遊空間をもたせ、互いの間隔を開け、人間一人のもつ空間を拡げるべきだというわけである。 生まれてはじめてこの街にたどり着いたとき、大きなサブマリン・サンドを連想した。雑穀パンのような喧噪の町並みに包まれた野菜サンドの中身のようなこの公園こそが、この街にとって大きな意味をもっていると直感した。大きな摩天楼と大きな緑、それはひとが個々にこの都会で超人として飛び立つための、あるいは鳥人として羽ばたくための、ふたつのベーシックな環境ではないか、と。超過密都市に生き抜くためのオゾン層。過激な仕事という動物性たんぱく質と、樹木という野菜を摂り、陰陽のバランスを保つ。 「コルビュジェはまるで自然をキャンバスにして、巨大な絵を描いているようなんだ。そこに建てられた人工建造物は、まるでその自然のなかにはじめからあったエレメントのように自然に描かれる。まるで光子が、空気や水の粒子に当たって構成されていくようだ」とぼくは樹に向かってつぶやく。 「そのキャンバスになる<自然>というのは、われわれ緑族のことかい?」と太い声で大樹。「そう君たち緑の樹木を含めた空気、山や土、川や水や太陽・月などのすべてがかれのキャンバスになっている。緑を赤に塗り変えるということじゃないんだ。確かにかれの創る幾何学的な造形物は、それまでの自然にはなかったものだが、そこでもなにかが違和感を排除していると感じるんだ。」 「お言葉ですが、俺たち樹木を切り倒して人間たちが住むためのハコを創ってるわけだから、それは単に自然を破壊しているだけじゃないか? コルビュジェ先生の発明したピロティや、ハコ型の近代建築は、都市空間を貧しいものにした元凶として非難されてるんじゃないのかい?」 この静寂のなかの樹との会話は、いったいなんだろう。すぐ近くには、ジョギングするひと、ローラーブレード、シャボン玉、ストリート・ミュージシャンなど、ひとにあふれているのに、樹と話しているあいだは、まるで人間のことを感じなくなる。大樹のまわりにはたくさんの生態系が絡んでいて、ひとつの宇宙を創っている。かれが体験する時間帯はぼくらのものよりゆっくりと動いていて、80年前コルビュジェと交わした言葉も、かれの頭のなかでは早送りのヴィデオのように一瞬間の画像としてだけ残っているのかもしれない。言葉は通じているようだが、異生物としてのおたがいの側から一方的に話しているだけのようにも思えてくる。 「いや、コルビュジェのどの作品を見ても、自然(=植物)の方にも配慮が行き届いている。その造形物の方から、宇宙と呼ばれるバックグラウンドの空間の方をのぞき込むと、奥行きは感じるが、その空間そのものがかれの作品を引き立たせるためにおとなしく鎮座しているようにも見えてしまうんだ。もちろん自然の方は時間とともに、ときに恐ろしげに蠢きまわるのだが、コルビュジェの創ったものだって負けてはいない。それは自然の中で異様な個性をもって叫んでいると同時に、ほとんど自然と同化してるといってもいい。」 樹の幹に近寄って、頬をほとんどそこに着けながら話す。いつのまにか大きな植物と話しているという威圧感は消えている。子どものころアニメで観た樹の幹の中央にある顔が話すシーンが交錯する。それでもぼくらの背丈の数十倍はあるポプラの大樹は低い声で話しつづける。「俺たち植物の身体の構造とは、なにもないところにレンガをぎっしり敷きつめ、積み上げていくようなもんさ。なにせ俺たちは生まれたら最後、ここから動けないんだからな。あんたがた脊椎動物の骨格は柱と梁を組んで作られている。骨格で身体を支え、そのかたちを保ち、姿勢を維持する役目をまかせている。その動物の骨格をまねてだな、動かない建築物をこんな風に異常に量産する心境がわからんね。」木はうしろに見える摩天楼群に目配せしながら語る。植物と建築力学の話におよぶとは思わなかった。会話はコルビュジェの個性をまねるかのように、実に静かにパークの森のなかをこだまする。 ベンチにたどり着き、ポケットの中の文庫本「伽藍が白かったとき」を開ける。マンハッタンのながいアヴェニューと碁盤の目について: 都市は動物学である。人間は出口と入口のある一本の消化管である。管の出口入口には教会もなければ宮殿もない。通り抜け自由だ! 都市の健康の基本条件、それは端から端まで通り抜けられること、水が通り栄養物が通ること、すなわち自由であることだ! こうした動物学的な必要の上に、造形的性質の出来事を接ぎ木してはならない。機会はそれに適したときでなければならない。(ル・コルビュジェ「伽藍が白かったとき」岩波文庫 p-98) 街路を説明するのに、人間であるコルビュジェは動物学で樹木に対抗しているが、この部分の動物を植物と差し替えてもなんの支障もない。ぼくたちはふだん動・植物という種分けを気にするあまり、地球上のおなじクリーチャーであるという最も重大な共通項を忘れてしまう。植物と話している最中でさえこのありさまである。おたがいがおなじクリーチャーである、という認識があれば、どんなかたちを創ろうが、それはひとつの宇宙として同化していくのではないだろうか。 いつのまにか、最初に声をかけた大樹のあった場所からずいぶん遠くまで来てしまった。樹の一本と話していたわけではなく、森という意識の集合体と話していたのだ。湖の北には針葉樹を含んだまっすぐにそびえ立つ大樹が林立し、まるで公園の外の摩天楼と対抗している風情。平日だと人気も少なく、ここはほとんど大都市の一部とは感じられない深い森のなかである。太陽が西に傾き、無数の木の葉のフィルターを通して、光子が踊る。風が楽器のベースのように樹木たちの言葉を伴奏するたびに、光子はさらに激しく踊る。植物たちはかれらが思いこんでいるほどじっとしたりなどしていない。植物も動物なんじゃないか、といったぼくのたわいない意識にまわりの森全体が光のダンスをくり返す。もうとっくにぼくは、ここがマンハッタンの真ん中などとは思ってなく、澄み渡ったスイスのジュラの森のなかを歩いているつもりになっている。 ぼくもあなたも見やしない、 けれど木の葉をふるわせて 風はとおりぬけてゆく。 "Who Has Seen the Wind?" Christina Rossetti(1830-1894) 西条八十訳 ル・コルビュジェ Le Corbusier(1887~1965) ル・コルビュジェはスイス・ジュラ山脈の高原の町、ラ・ショー=ド=フォンで生まれ、19世紀のこの美しいジュラの森に多感な時期を過ごした。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ Charles-Edouard Jeanneret-Gris。今回のニューヨークMoMAでの回顧展では、古き美しきこのヨーロッパの街をあこがれをもって克明に紹介している。その高原の森のなかと外では、まわりのどの光子たちも輝きを増し、少年コルビュジェはその高原の空気の層を泳いでいるようにイメージを膨らませる。伝統的な時計職人をめざしていたティーンのかれは、イタリアとギリシャへの旅行で、地中海に面する白亜の建物たちに魅せられ、建築の道に進むことになる。 30歳でパリに行き「ル・コルビュジェ」を名乗り、出版者として雑誌「エスプリ・ヌーボー」を創刊する。コルビュジェとはコルボー corbeau=カラスのこと。Le Corbusier とスペルアウトして、カラス君とかカラスちゃんといった愛称の意味になる。鳥のなかでも嫌われもののカラス。印象的な丸い眼鏡の奥の左目はパリに上京した翌年に失明してしまい、片目のカラスとなる。これらの挫折感の表現は、こののち「近代のダ・ヴィンチ」として成功するル・コルビュジェにあまり似合わないが、かれの建築群の構成や都市計画原理を描くスケッチには、しばしばカラスになって飛んだときに観た鳥瞰図がくり返されることになる。 カラスと呼ばれる少年は森の上を、大きな円を描くようにゆっくりと飛んでいた。ひとつの円を描き終えると、少しだけ離れた別の場所でまた同じような律儀な円を描いた。そのようにしていくつもの円が空に描かれ、描かれては消えていった。視線はまるで偵察する飛行機のように、ずっと眼下に注がれていた。かれはそこになにかの姿を探し求めているようだった。しかし簡単にはみつからない。森は陸のない海のように大きくうねりながら、眼下に広がっていた。緑の枝がからみあいかさなりあい、森は深い匿名の衣をまとっていた。(村上春樹「海辺のカフカ」下巻 p-362) 村上春樹の小説のなかにはカラスがよく登場するが、その鳥が飛びながら上空から覗き込んだ風景から、われわれ人間にはそれまで見えなかった新しい空間把握を感じさせる。エンジン音のうるさい飛行機ではなく、静かなカラスの飛翔には、宙空の自然との調和がある。この小説では森のなかに妖怪をみつけたカラスと呼ばれる少年が、妖怪ジョニー・ウォーカーの身体をくちばしで穿り返すシーンがある。 ひょっとしたらこの建築家は、地上では観えにくい人間の所業をあばくため、コルビュジェ=カラスという渾名にしたのではないか、とさえ感じさせる節がある。精神を空高く浮遊させ、人びとの振る舞いを分析する。偶然ながら「Kafka on the Shore」英語版のカヴァーは、コルビュジェのシンボルでもある丸眼鏡の右目だけがフィーチャーされていることを発見した。 コルビュジェの手がけた大きな都市計画の平面図は、カラスが飛ぶ上空よりもはるかに高い位置からの鳥瞰図となる。晩年になって、インド・パンジャーブの州都「チャンディーガル」計画を引き受けてからの20年間、このカラスは年に二度のヨーロッパ-インド便の飛行機の窓から、半砂漠の設計地を喰い入るように観ていたという。そのときのカラスの頭の中にはもはや細部までの設計図が出来上がっていたにちがいない。航空機からの視点の巨大俯瞰図は、左のようにインドのキャビネット職人の手で、マホガニー色の美しいものとなって MoMA に飾られている。 州議会場の上のタワーは明らかに太陽(またはカラス)の方向を観つめ返し、白く輝いている。 チャンディーガルができ上がった数年後、東洋のアーティストが短期で建てた万博のシンボルタワーと類似点が見受けられるが、そちらの方は、地平上の俗世の混乱を見つめているにすぎない。 コルビュジェのタワーは天を正面に仰ぎ、インドの不屈の大地から太陽を睨み返す。晩年までのかれの人生で、最初で最後の大規模都市計画といっていいこのインドでの仕事に、コルビュジェは燃えた。対象は、人びとと太陽がどう関わるかを多元的に現している。予測されたスラム化も、この州都の物価高という要因もあり、最小限度に食い止められている。モダニズムへの反動の時代に、チャンディーガルは近代都市計画の失敗例として名指しされたこともあったが、IT大国として変貌しつづける現代インドを、コルビュジェの個性が歴然と象徴している。 若き安藤忠雄が深く魅せられたロンシャンの教会では、コルビュジェ自身が「ロンシャンでは、ミサを行う以外、何の制約もない」と言っているように、その都度の模型がまるで彫刻のように自由にかたちを変貌させる。 視界が開けるにつれて白い湾曲した壁が青空を背景に現れてきました。建物に至るアプローチ空間の秀逸さに感心しながら、期待に胸を膨らませ礼拝堂の門をくぐった私は、そこでそれまで抱いていた予想を裏切る、暴力的とでもいうべき激しさを秘めた空間に大変な衝撃を受け、しばし呆然としてしまいました。水平、垂直の一切が拝され、スタッコの素材感が露わにされた粗野で彫塑的な造形、不規則な平面形状を有する内部空間を満たす洪水のような光。すべてが、当時の私が持っていた建築の概念を覆すものだったのです。(安藤忠雄「建築に夢をみた」NHKライブラリー刊 p-162) ロンシャンの教会の敷地に、はじめて訪れたときのスケッチにはもはやコルビュジェのなかで建物のイメージが出来上がっていた。24歳のとき観た、アクロポリスの丘・パルテノン神殿のスケッチと酷似しているという。 安藤忠雄は以来、何度となくこの教会を訪れたが、あの至る所から鮮やかに彩色された光が襲いかかってくるような印象は、薄れるどころか、半世紀近く経た現在なお、驚きと発見をもたらし、私を挑発しつづけている。と舌を巻いている。建築にとって光は常に重要な主題だが、コルビュジェはロンシャンで、ただ光を追い求めるだけでも建築ができることを証明してみせた。 ここにコルビュジェのなかの「白い伽藍」を語る上できわめて重要な一点の絵がある。1918年、21歳のときにはじめて描いた油絵作品、La Cheminée (The fireplace)。一見ファイア・プレイスとは関係のない、巨大な本のうしろ側に白い豆腐のような立方体が観える。そして画面左下の隅には、中世の伽藍のモールディングのようなものがころがっている。この白い立方体はコルビュジェの生涯にわたって実に頻繁に登場する。 秘密のリサーチをしなくてもいい研究所。 が、建築はそうはいかない。 Le Corbusier MoMA Audio はじめてパルテノン神殿を観た時から、コルビュジェの右の隻眼には、二千年前にこの伽藍が真っ白だったときのイメージが張りついていた。そしてあるいは、おなじかれが観たその当時のパリの伽藍も薄黒く汚れていた。その絵の左下にころがっている伽藍のモールディングは、薄汚れてしまった中世のものである。新しい建築は、太陽に向かって真っ白に聳え立つべきで、その伽藍が真っ白く存在するためには、ただ絵画を描きつづけること。建築のための(政治的な)秘密のリサーチなどは必要ないはずであった。 この最初の油絵のあと、親友のフェルナン・レジェ、あるいは同時代のピカソとよく似た静物画をたくさん描き、そのうちの20点以上が今回のMoMA展に展示されている。キュビズム運動をはじめたのはコルビュジェではないか、という錯覚に陥るほどだが、いちばん若いときの作品、この上に掲げたファイア・プレイスと題されたものだけが、まるで1970年以降の作家が描いたコンセプチュアル・アートのようにも観えてくる。 レジェ、ピカソ、ブラック、グリス、ブランクーシ、ローランス、リプシッツ —新しい時代の芸術の扉を開いたこの人たちは近代建築と調和できる唯一の人びとである。(中略) もしも堕落しなければならないのなら、絵画よ、死んでしまえ! 輝かすべき建物の壁をもしも汚すものなら、絵画を棄てようではないか! 真実の仕事をする心構えがないなら、画家よ、描くのをやめたまえ! そして人間精神の高みである芸術を愚弄しないでもらいたい。精神は初歩の人にも識者にも同様に輝きでるものだ。大衆? 大衆は、見事に建築と結合した芸術を賢しげな理屈抜きで愛するであろう。馬鹿にしないでいただきたい。(ル・コルビュジェ「伽藍が白かったとき」岩波文庫 p-231) 真に新しいものではないと感じたものに対するかれのこのような罵倒は、絵画を志した青春時代から何度となくぼくを落とし込み、勇気づけ、その都度転嫁されて、新しいものに対する次のエネルギーになった。 かけ足で代表作をかい摘んだが、今回は、パークの大樹と話したことの衝撃でその話がはずみ、コルビュジェのなかの伽藍がマンハッタンで白く輝いていたことに触れる紙数がなかった。続編では、そのことと同時に、第二次大戦前の80年まえに、すでにアメリカという大浪費と、腫れ物ばかりがあった、と直観するコルビュジェのことを書く。あるいはそこには現代のアメリカの病いの元凶が、ぎっしりと詰まっていそうな気がする。 9-11の記念日がすぎて、ここでひとつだけ追加しなければいけないとすれば、コルビュジェは「摩天楼は小さすぎる」と宣ったが、ずっとあとに建てられた摩天楼の最大級の二棟が、21世紀のはじまりとともに、崩れ去ったことの象徴性である。コルビュジェがめざした「超巨大な摩天楼」は、何者かの手でもろくも崩壊した。 「伽藍が白かったとき」が書かれてからかなりの時間が過ぎ、戦後コルビュジェは、マンハッタンの巨大な摩天楼のひとつ、NY国連ビルの原案作りに携わる。1965年、かれは地中海の海で水死するのだが、その翌年に日系のミノル・ヤマサキの設計で世界最大の摩天楼タワーWTCの2棟が着工する。 ことしの9-11の前日に、グラウンドゼロのメモリアル・サイトに足を踏み入れた金魚だが、本当に「それまでの摩天楼は小さすぎたのだろうか?」とコルビュジェの言葉を疑問符で反芻しつづけていた。が、生きているセントラル・パークの大樹とはちがって、そこに虚しく水が流れ込むだけのモニュメントは、もはやなにも語ろうとはしない。 そこにあった110階の建物二棟は、巨大すぎるがゆえに万人が注目し、あこがれ、嫉妬し、あるいは激しい憎悪の対象となり、そのことが即ち、崩壊を目論んだ何者かによって、摩天楼としての命を奪われてしまうことになった。 カラス君(ル・コルビュジェ)が観たアメリカ(2)につづく タグ・建築: 魂の幸福ロックバンド — 雨のカタツムリ館でのカンディンスキー ライトとの対比 世界中が雨・仮庵(かりいお)の祭り・シェルター・方丈記 小さきものたちとのダイアローグ(2)学校という牢獄の解放 SANAA
by nyckingyo2
| 2013-09-21 22:27
| NYC・アート時評
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