by nyckingyo2
検索
フォロー中のブログ
記事ランキング
最新の記事
FaceBook
以前の記事
2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 01月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 05月 2020年 03月 2020年 02月 2019年 10月 2019年 07月 2019年 05月 2018年 12月 2018年 10月 2018年 07月 2018年 05月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 10月 2017年 07月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 カテゴリ
全体 はてしない物語 ことばと音をコラージュする モモのいた場所、モモのいる時間 遺伝子から魂伝子へ 金魚の超饒舌ファンタジー タネたちは故郷をめざす 続・多層金魚の戦争夢 続・ソラリスの海に泳ぐイカ NYC・アート時評 NYで観た映画たち・本たち 悪魔の国からオニの国のあなたへ 続・炉心溶融した資本主義 天の明星を飲む 写真構成 NYC 続・洪水からの目醒め Roll Away! 浮遊的散文詩歌 続・街かどでOneShotからの連想 愛は世界を動かす大きなエンジン ポートフォリオ 続・小さき者とのダイアローグ マンハッタン効果 NYC Music Life エッセイらしく 小 Japón 旅そのもの記 未分類 タグ
最新のトラックバック
外部リンク
ファン
ブログジャンル
その他のジャンル
|
ロケットが、宇宙の辺境にあるひとつの惑星に着くと、その星全体がまるで頑丈な「甲冑」を纏っているように、見事に機械で覆いつくされていた。そこはかっての地球人類以上の高度文明を営んでいた生物種が絶滅したあとの世界。かってかれらが造り出した機械たちだけが「生き残って」いて、製造担当の機械たちが、だれのためにもならない機械を大量に黙々と、無機質な機械音のなかで造りつづける。古くなって稼動しなくなった機械がみつかると、ほかの破壊担当の機械がみるみる間にそれを壊し、また新しい機械が再生産をつづけて、惑星は永遠に機械の転生をくり返しながら存続する。まるで全体が大きな機械の墓場のような、機械惑星…。 オリジナル・ストーリーは確か、シマックの50年代のSF短編と記憶するのだが、原典のタイトルも不明である。この短編に触れたのはぼくの少年時代だったが、そのころの地球(ぼくのまわり)は、スカンポ・どじょう・カエル・蝉・オニヤンマ・ときにはイノシシの子=瓜坊まで登場する自然にあふれ、機械が介入する場所はいまよりずいぶん限定されていた。ぼくたち男の子は、その少なかった機械というものに、自然の事物以上にあこがれた記憶もある。現代の子どもたちは同じ時期に、ゲームとキーボード、そして3Dプリンターに至るヴァーチャル世界に先に触れ、あるいはどっぷりと浸かってしまう。ヴァーチャル=機械とは思わないが、両者はとても近い関係にある。 現在の地球を観つめながらそのシマックの物語を思い起こせば、われわれの住むこの星が、その機械だけの惑星にかぎりなく近づいている。ちがうのは世界人口は急増しつづけ、今世紀末にはなんと百億を超えるということ。その百億全員が欲望のままにエネルギーを使い、機械を造りつづけるならば、地球はまちがいなく物語とおなじ方向に向かい、崩壊する。 さらにおそろしいことには、チャップリンの「モダン・タイムス」を観るまでもなく、人類という種は極端に増殖しながらも、その肉体と精神の双方はどんどん機械化してゆき、さらに無意識に他の生物種までをも機械のように替えてしまおうと企てていること。そしてそのことを明解に確認するすべもないほどに、われわれの心がモノ化(機械化)してしまっていることだ。 Museum of Arts and Design, NY での「OUT of Hand」展(〜June 1st)は、「ポスト・デジタル時代の具現化 Materializing the Postdigital」というサブタイトルがついている。3Dプリンターの技術は、70年代からはじまり、2005年の時点には急進展し、いまや「第三次産業革命」などと評価するひともいる。このミュージアムMADは、伝統的クラフトなど、コンサーヴァティヴな展示が多かったのだが、今回はロン・ラバコがキュレーションして、3Dプリンターを使ったアートを多数展示している。スキャンされたモノたちが、立体的にリプリントされ、再生産されるという異常事態に、ぼくのアタマは混乱する。これではまるで<モノたちのクローン>ではないか! いままでトヨタの工場で工員たちの手で造られたと思っていたおなじ型おなじ色のクルマが何万台走っていても驚きはしなかった。ところがそれらが実は、スキャン、コピー、ペーストの3Dプリンターによってできているのだといわれると、この旧式の大脳は急にオチツキを取り戻せなくなる。 上にタイトル写真として掲げた、リチャード・デュポンの立体作品は、作者の肉体全部を精密にスキャンし、そのデータを3Dプリンターで再構築している。作者がその上に photoshopのwave filter を3Dにしたようなフィルターをかけてこのように波打ってしまったわけだが、その歪みの必然性のなさが、モノに魂を吹き込むどころか、モノをモノとしてさえも正視できないほどのつまらなさを呼び起こしている。実際に観客の背丈よりかなり高い立体像がそこにあるのだが、その波打った形状ゆえにか、驚くほど存在感を感じない。もちろんそのことは作者の意図でもあるのだろう。それにしても、フランク・ステラ、杉本博司など大物の作品があふれているこの展覧会のアート作品を、アートとして評していくことにすら、ひどい抵抗感が満載してしまう。酷評だけで終わるアート評など決してしない建前だが、この文は展評として、個々の作品を評するつもりはない。3Dプリンターという新しい技術が、これからの地球に溢れさせようとしているモノたちの性格変更について、アヴァンギャルドで、同時に頑迷な石頭による古風な考察をしてみよう。もちろんこのMADミュージアム本来の、3Dプリンターを使用していないモダン・クラフトの作品も併記していく。 生物と無生物の境界は、遺伝子の有無というように理解していたのだが、右の作品 "Chairgenics" は、タイトルが示すように「椅子の遺伝図」である。作者は「無生物に対しての品種改良技術の科学を、椅子に対して活用すれば…」と大真面目。「個々の椅子の望ましい特徴を備えた交雑育種は、最終的に究極の椅子を産み出すでありましょう」。もちろん作者のいう椅子の遺伝的進化とは「座り心地」など使う人間側の機能性に対しての進化のことで、椅子の遺伝子が淘汰されていくわけではない。座りやすさ、軽さ、簡便性、美しさなど機能性を追求したデザイナーが、3Dプリンターで椅子を進化させる。作者の意気込みは理解できるが、座るというすべての状況にマッチする究極の椅子など、存在しようがない。「モノ」とはあくまでさまざまな機能性に対して、個性を保ちながら創造されてこそ、魂を持ちはじめる可能性があるのだ。 大量生産された「モノ」は、たとえそれが人間の手によって造られていようが、それぞれがオリジナル・モデルの「クローン」といえる。それが3DプリンターやCADを経由しても、そのモノのクローン性はまったくおなじはずなのだが、どうもそのあたりが当方の旧式脳にはいつまでも合点がいかない。コピペという安易な作業で、二次元の写真が増幅し、様変わりしていくことに対しても恐ろしいのに、ふだんの生活に使っている立体的なモノたちがすべてコピペで生まれるのを想像して、寒気をもよおすことになる。 3Dプリンターでできた左の椅子は"Holy Ghost Chair"と名づけられているが、聖霊椅子ではなくあえて「恐ろしい亡霊の宿った椅子」と訳したい衝動に駆られてしまう。他の椅子と比べて別段変わったところはなく「3Dプリンター」という言葉さえ聞かなければ、気にせずに掛けてしまうだろう。聞いたとたん、その椅子の存在は、意識のなかから急に希薄になっていく。 そのモノを使う人間の側の、他者や他の生きものに対する愛情に似た思い入れから「モノに魂が入った」という表現を耳にすることがある。 白洲正子は、陶器の鑑定において天才的で、自分の師でもあった青山二郎についてこう語る。 青山さんが偉いのは「写真で見ればわかる」鑑賞陶器から「写真で見てもわからない」陶器の真髄、いわば形のなかにある魂を求めたことにある。人間でも、陶器でも、確かに魂は見えないところにかくれているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない。それが青山二郎の信仰であった。精神は尊重したが「精神的」なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる。現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。 陶芸家が入魂の一心で創りあげた茶碗を、利休が茶の湯セレモニーで人びととシェアすることによって、そのモノの形のなかに含まれていた「魂」が滲み出、溢れ出ることがある。とすれば、モダニズムの作品であろうが、3Dプリンターで造られたモノにも、入魂が形となって表われることもあってしかるべきだ。 左の"A Night's Breath"と題されたコンセプチュアル・アートは陶器製の枕、ワックス、少量の水でできている。中央の窪みに溜まった水に指を浸けると、壁に映った水の影が揺らめく。窪みのなかの水は8.5オンスで、女性が8時間の睡眠中の呼吸に必要な水分の平均値にセットされている。直接的な連想だが、女性的な曲線に囲まれた中央の窪みは、腹部の中央「へそ」で、そこに溜まった水の波形を指で揺らせる快感がある。 水の「動き」は、無生物を生物だと錯覚するのを助長する。上の写真、青山次郎が讃えた、利休所持の「禿(かむろ)」という茶碗のことも、陶工の所作、使うひとの所作、そのなかに点てられた緑茶の動き、と密接に関係しているから、その形に「魂」が観えてくるのではないだろうか。 デンマークの女性作家の手になる、右のふしぎな形の真珠のネックレス "String of Pearls with Gold Clasp" は、そこに真珠がないことを繋いでいく作品。作者の言葉「このシリーズのブローチを身に着けたとき、お互いに首のまわりで隣接しているその記憶は、呼び起され、痛烈に伝達する。」モダニズムのモノに入魂を企てれば、そこには「モノの不在」しかないというネガティヴな主張は、それでも入魂した「形」を保とうとあがいているようにも見える。ここではなんと「不在」によってモノに「魂」を呼び起こそうとしている。 さて、もう少し気楽に3Dプリンターのヴィデオを見てみよう。スエーデンの美しい女性が宙空に手を動かしスケッチするだけで家具が表われてくる。究極のインスタント・モノ作りが、3Dマジックとして画面から流れ出す。無機質のコンピューターから生み出されたフォルムは好きではないが、美女の柔らかい手から「かたち」が溢れ出すという錯覚で、モノではなく人びとの心根の方にうんと近づき、そこに戻っていく感覚がある。男性から観た印象のこの大きなちがいは認めざるをえない。もう一歩踏み越えれば、ひとの作ったモノと、モノが作ったモノの境界線はひどく微妙であるともいえる。 ひとむかしまえまで、功利主義とは批判言語ではなく、功名と利得はそのひとの人生の幸福と正比例していると教わって育った。もちろん似非資本主義の現代でも、この原則は微動だにしていない。大多数が富の象徴としてのモノをたくさん抱え込むことに精を出す。それでも環境汚染やエネルギー問題から、現代人の富に対する考え方は少しづつ変化しはじめている。 仏法では、この世の物欲でふやしていったどのような物質のかけらさえも、あの世に運べるわけはないという。志ん生の落語「黄金餅(こがねもち)」に登場するドケチ坊主の西念は、あんころ餅のなかに、貯めていた黄金を包んで飲み込み、そのまま死出の旅路につく。まことに強欲の極みだが、マネートリップをしている最中には、全員がこのことに気がつかない。カネというモノ交換券に魂の注入するすべがないことに、すべての原因がある。 3Dプリンターによる第三次産業革命が起きるとすれば、モノのコストは極端に下がり、機械の大攻勢技術は人類の格差を解消するのではないか。さらに多くの人類が、機械の効率化で労働時間が減り、余暇を幸福に生きる道が拡がるかもしれない。 ところが、現実にはその逆の、ますますおかしな世界しか想像できないのはどういうことだろう。第一次産業革命のころからのこの大きな夢は、人類それぞれの自由競争という欲望開放政策で、とんでもない方向に奔りつづけている。世界人口はさらに急増し、格差社会はますます拡がり、一部の欲望肥大種族のために全人類が犠牲になるはめになる。モノの亡霊、それを盲信する人間の亡者たちに牛耳られ尽くしているのだ。そしてなによりもモノそれ自体に魂のかけらも乗り移らないことは、それを使う人間の魂をも荒涼と荒れ果て、どこかで人間性というものまでをクオリティ・ダウンさせるような気がしてくる。 「ゾウの時間 ネズミの時間」を執筆された生物学者・本川達雄氏は、縄文時代人と現代日本人を比較して、このように述べる。 現代人が使う、口から摂取する食料のエネルギー量(=体が使うエネルギー量)で求めてみると、現代人も同じサイズの他の動物とそれほどかけ離れてはいない。ところが、現代人はこのほかに、石油や石炭などから得たエネルギーを大量に使う。食べる分のエネルギーとこれらのエネルギーを足すと、現代日本人は、体が使う分の40倍ものエネルギーを消費していることになる。これほど大量のエネルギーを使う動物といえば、ゾウなみの体重になってしまう。 現代の日本人は、大量のエネルギーを使うことによって、時間を速めて経済的な利潤を産み出そうとしている。これは縄文時代に生きた人と比べれば、40倍もの速度の時間が流れていることになる。 実は日本人のエネルギー消費量が体の10倍を超えたのは、高度成長経済の頃。つまり、ここ30〜40年の間に、日本人はエネルギーを大量に使って急速に時間を速めていった。コンピューターなどはその象徴的なもので、クロック数をあげるとコンピューターの速度は速くなる。クロック数とは時間のことで、私たちは、速くなったクロック数に合わせて、仕事をしなければならなくなった。でも、体のほうは縄文時代とほとんど変わらないから、そのスピードについていけなくなっている。 中国の思想家・荘子の話の中に、ある百姓のじいさんのことが出てくる。そのじいさんは、機械を使うと「機心」になってしまうので、機械は使わないという。ここでいう機械は、井戸の水を汲み上げるのに使うハネつるべのことだが、中国の古代にすでに、機械とは何かを考えた荘子はやはり偉大な思想家といえる。 「機心」とは言い得て妙である。ハネつるべがなかった古代人は、水を飲むだけでもひどい重労働で、ときにはその機械がないことが生死を分けたとも思うが、そこでの人間の存在そのものが自然と融和していたといえる。荘子から二千年余、「機心」が増幅しつづけた人類は、操っていた機械に操られることになった。現代ではこの完全な逆転劇がすでになったことを確信し、いきすぎた機心を棄てるべく努力するひとは増えた。しかし近未来に人類全員が気がついたころ、もはやどんな手を打っても手遅れということも十二分に考えられる。巨大化した機心が、すでにひとりで暴走しはじめている。 ほとんど完璧な人間の肉体美を表現したとされるギリシアの彫刻群は、実は古代地球にやって来ていたエイリアンがもって来た3Dプリンターによって造られていた。林浩司氏はこう語る。さらにルネッサンス期のミケランジェロ、ラファエロなどの彫刻・絵画も、同一の人体をスキャンし、3Dプリンターで再構成したものではないか。 確かにぼくも美大の学生時代、デッサンでなじんでいた大理石のミロのヴィーナス像やダビデ像が、時代も名も違う別の彫刻とほとんどおなじような肉体を持っていることに大きな疑問があった。同じ種類のスポーツで鍛えたとしても、これほどおなじ筋肉がつくものだろうか。おまけに何世紀を隔てて造られた彫像が、おなじ筋肉や乳房の持ち主であるモデルを使うことなどできるはずがない。違う彫像の同一性、左右が逆転した対称性、同一像の拡大・縮小、などから、明らかに人間の手とノミや彫刻刀だけで造られたものではないような気がしてくる。 ギリシアの彫刻もミケランジェロも、宇宙人が3Dプリンターで造ってくれた、と聞いただけで、ほとんどが「なーんだ」と落胆する。人間の手、叡智の極限の世界で生み出された、繊細な肉体美への追求を冒涜するもの、という人類側の反論は甚だしいらしい。まだ宇宙人は観たことがないが、UFOの存在は確信しているので、その可能性は大いにあると思う。ただ遠い将来、ぼくたちの子孫が他の恒星系で高等生物を見つけたときに、人類にとってもはや古い技術である3Dプリンターで、わざわざかれらの肉体の彫像を造ってやるだろうか、という疑問は残る。そして心情的には、魂の入ったモノをギリシャやルネッサンスの人びとが、かれらの手を使ってこつこつ彫り上げたということに、大いなる誇りをもつひとりでもある。 現代人が3Dプリンターを発明したことにより、これからその需要がうんと伸びることはまちがいがない。その開発と多層的需要に正比例して、われわれがまたおそろしいほどのエネルギーを使うことになるのは眼に見えている。むろんたとえば、太陽光パネルの改良と低価格化が進むなどのメリットもあるが、全体にこの地球がどの方向に進むのか、大きな流れは変えようがない気がする。それを改善できるのは、われわれ人類の「意識」が変革していくことしかありえない。 最近、ふたつの映画と著作で大ファンになった遺伝子学者・村上和雄氏は著書の最後に、人間の心と魂についてこう述べている。 「生命とは何か」について私は次のように考えています。「死んだら生まれ変わる」という人たちがいます。何に生まれ変わるのか。一般に考えられている生まれ変わりとは、自分の魂みたいなものがあって、それが体に宿ってこの世に現われる。この魂の連続性を生まれ変わりと称しているのです。 だが魂がどんなものであるかは定義できていません。ただ魂は連続していて、死んで肉体が滅びても魂はなくならない。死ねばその肉体から離れるが、また別の肉体を借りてこの世に現われる。 これらのことは(村上氏のご専門である)遺伝子のレベルでは説明できません。遺伝子は物質であり、魂を物質レベルで説明することは、いまのところ無理なのです。とはいえ、説明できないことが「ないこと」にはならない。私も魂は「あるのではないか」と思っています。 ただし私の考える魂は、いまの自分が意識している心ではありません。一般に、意識できるのは心であり魂ではないと思うのです。つまり魂とは無意識の世界と関係するのではないか。魂はあるけれど、自分でも通常は意識できないもののように思えるのです。 心はうれしくなったり、悲しくなったり、怒ったりします。しかし死んだら心はなくなるのです。心とは意識の世界であり、肉体と不可分です。肉体と不可分なものは、死んだらなくなっても不思議はありません。 ところがここに無意識の世界というものがある。これは自分でもはっきり意識できない世界ですが、この世界が魂とつながっているのではないか。魂は無意識とつながっていてそこからサムシング・グレートの世界に通じている。昔から神仏の世界が理性や意識の範囲だけではわかりにくいのは、このためではなかったかと思われます。 遺伝子DNAの構造モデルを提出したフランシス・クリックの書いた「DNAには魂があるか」という本の結論は「遺伝子には魂がない」というものでした。遺伝子は物質としての人間の連続性を伝えていくが、魂というものはそれとは別次元で考えなければならないもののようです。 ということは、遺伝子が全部読み取られたとしても、魂のことはわからない。魂がわからないということは、生命の本質もわからないことだと思います。いままでは心と魂をごっちゃにして議論することが多かったためにわかりにくかった。心と魂を分けて考えれば、生と死の問題がかなりよくみえてくるようになります。魂は私たちの根源的なものなので大切であることは事実ですが、生きているときは肉体も心も大切。この二つがあってはじめて生きていられるからです。そして生命の設計図である遺伝子は、この二つにかかわっていると考えれば、私たちが遺伝子とどうつきあえばよいのかも、自ずとわかってくるのではないでしょうか。(「生命の暗号」村上和雄 サンマーク文庫・p-238−240) どうやらぼくたちの魂は、ぼくたちの心と異分野の担当らしい。ということは、モノのなかに魂を注ぎ込んだり、読み取ったりするのも、いわゆる心の近くではなく、無意識と呼ばれている魂に近い部分の担当かもしれない。モノは人びとの現世での心の産物だから、3Dプリンターで造られていようが、いまいが、単純に魂を注ぎ込むことは難しいということになる。それでも、今回のMADでの3Dプリンターによるアート作品たちは、モノとして未完成な分だけ、魂を取り入れる余裕のようなものを感じた。白洲正子の魂も、青山二郎の魂も、これら3Dプリンターによる「未熟な」モノたちを、どこかの壁の裏あたりから、ほくそ笑んで観ているような気がして仕方がなかった。 金魚のFun & Fun: ネットのなか、3Dプリンターで捜しているうち、最後はとうとう食品にまで行きついちゃいました。 優秀な日本の食品サンプル業界が大ピンチ、っていう話からはじまって、とうとう最後のこのページは「ディナーをプリントしましょう、食べられます」だって! 中段のヴィデオで、ラビオリ・ピザ・ハンバーガーがプリントされるの図を参照。だれですか? おいしそうっていってるのは。材料確かめてね。世も末じゃ! いやアメリカも末じゃ! それでも一部のひとは大まじめ。scoffするなったってしちゃうよね。(ちなみにscoff には、あざ笑う、ばかにするという意味と、がつがつむさぼり食う、というふたつの意味があります。)そのうち合成マグロ肉でプリント・スシ一貫、ってなりますね。中トロのインク・カートリッジを補充してくださいとかね。きっと。
by nyckingyo2
| 2014-05-28 06:48
| NYC・アート時評
|
ファン申請 |
||