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全体 はてしない物語 ことばと音をコラージュする モモのいた場所、モモのいる時間 遺伝子から魂伝子へ 金魚の超饒舌ファンタジー タネたちは故郷をめざす 続・多層金魚の戦争夢 続・ソラリスの海に泳ぐイカ NYC・アート時評 NYで観た映画たち・本たち 悪魔の国からオニの国のあなたへ 続・炉心溶融した資本主義 天の明星を飲む 写真構成 NYC 続・洪水からの目醒め Roll Away! 浮遊的散文詩歌 続・街かどでOneShotからの連想 愛は世界を動かす大きなエンジン ポートフォリオ 続・小さき者とのダイアローグ マンハッタン効果 NYC Music Life エッセイらしく 小 Japón 旅そのもの記 未分類 タグ
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……雲からも 風からも 透明な力が そのこどもに うつれ…… —宮沢賢治『あすこの田はねえ』下書稿(二)/春と修羅第三集 文末 山中伸弥博士のIPS細胞のノーベル生理学受賞以来、細胞/遺伝子の話題にこと欠かない。治療や組み換えの問題だけでなく、ぼくたちの体内にあふれる、細胞というミクロの宇宙から「科学」の先にあるサムシング・グレートの意志をさぐる動きだとも感じている。 カール・セーガンの晩年1993年の長編、アン・ドルーヤンとの共著「はるかなる記憶-人間に刻まれた進化の歩み」を読んだ。この本の英語タイトル"Shadows of Forgotten Ancestors"を直訳すると「忘れられた祖先の影」で、これはそのまま巻末章のタイトルとしてくり返されている。 大江健三郎は、この絶妙のカップルについて帯にこのように記している: 旧約の作家たち、ルネサンスのユマニストたちを、今日の危機認識とカ学的展望のなかにおけば、この二人のように書くだろう。人類とわれらの惑星の再生を切望する、祈りのような情熱と、美しい興味深さにおいて。 ぼくたちの身体のなかに、生命が誕生してから数十億年というあまりにも遠大な地球の歴史がすべて内蔵されている。この極小値=細胞/遺伝子からの認識は、ぼくたちが大宇宙のなかの一塵であるという極大値からの認識と同義である。いや、はるかに夢みる島宇宙の彼方の姿よりも、現実にこの体内に60兆個の細胞が存在し、そのうちの15兆個が毎日死滅し、1秒間に5000万もの細胞が入れ替わっていてなんとかつじつまを合わせているということを聴いて唖然とする。老体と呼ばれ、そのスピードは多少遅延はしているのだろうが、生きているということに、激しい自負が残る。生きているということに、天に深く感謝している自分がいる。そしてその自分の肉体に織り込まれた細胞/遺伝子の膨大な情報に改めて脅威する。 かたや原発事故の至近距離に住む子どもたちの肉体を危惧している自分がいる。その子どもたちが成人して親となったとき、次世代の子どもたちの肉体が、さらなる放射線による異変に見舞われることを考えている。 29年まえに起こったチェルノブイリ原発事故では、事故当時の子どもたちが成人し、かれらの子どもが生まれた。ベラルーシに住みつづけたかれらの遺伝子の多くに突然変異が起きている。正視にたえない子どもたちの奇形に、いったいぼくたち「大人」のなにがいけなかったのか、反問しつづける。 「悪魔たちの所業」という言葉が脳裏を過るが、いったいその悪魔とは即ちぼくたち自身のことではないのか。原発を造り、そこからのエネルギーを無尽蔵に使っていたぼくたち大人の所業ではないのか。ベラルーシで現在進行形で起こっているホラブルな現実よりもさらに、故郷の国で、そして世界中でこれから起こるであろうその悪魔の所業を、深く憂慮する者である。3-11でフクシマの事故が起こった直後、田中優氏は「子どもたちの病気は7年後から始まる」と明言された。体内被曝した者は十年後に「子どもから順番に死んでいく」。事故後3年の今、福島の子どもたちの甲状腺癌ほかが急増し、早急になさなくてはならぬことが山積しているのに、あいかわらず日本政府と当事者の隠蔽だけがつづく。せめて誠意のある者たちの自発行動に委ねればいいと思うが、それすら厳しいムラの規制に背くという。 目に見えない放射性物質というものが、またこの地球星をぐるぐる回りはじめた。2011年5月、福島県浪江町では耳のないウサギの子が生まれた。人間の子どもが長い耳のウサギの絵を描くのは、お母さんの言葉をもっと聴きたい、という願望(浅利式色彩診断)だと聞いたが、耳のない子ウサギが現世にあらわれた理由は、みんながもうウソは聴きたくない、ホントでも聴きたくない、なにも聴きたくない、ということだろうか。 たった1ヵ月たらずの寿命だったが、この小ウサギの存在はまぎれもない事実であり、その姿はこれから出会うぼくたちの小さな仲間たちに決してあってはならないこと、という自然からの緊張した警告だった。子ウサギも 見えない大きなちからに踏みつけられてしまった。福島の子どもたちをいまからでも、早急に、なんとしてもできるだけ遠くに、逃がさねばならない。 上記のカール・セーガン「はるかなる記憶」は、長い地球の歴史のなかで、突然変異によってそれまでの生態系がまったく変わってしまったことを記述している。時期を同じくしてさまざまな生物に起きた劇的な形態変化も、多くの生物が死に絶えた「大絶滅」が引き金になったと考えるのが自然であるという。この数度の大絶滅のなかで、白亜紀末のものはもっともよく知られている。この6500万年前の彗星 / 小惑星の衝突で地上の生物種は一掃された。当時の生態系の頂点であった恐竜は絶滅し、哺乳類が台頭をはじめた。 ここ半世紀に起きた三つの原発事故(スリーマイル島・チェルノブイリ・フクシマ)だけで、現世生物や人類絶滅を想像すれば嘲笑ものだが、このまま原発開発がつづけば、創造主の怒りは頂点に達するにちがいない。彗星が地球に衝突するのも、津波で原発が爆発するのも、サムシング・グレートの寓意や諷喩と観れば、なにもちがっていないように感じる。事故後の日本政府 / 東電の対応を観ていると、まったく反省の色はないどころか、原発開発を正当化しつづけ、世界中の怒りを買っている。そして原発の利権に代表される、さまざまな似非資本主義の巨大で醜悪な力が、世界を急激に破滅へと導いているのではないか。 セーガンは「血縁淘汰」ということばを使って、生物のなかの利他主義と自己中心主義を論考している。社会性をもつ多くの動物が近親者といっしょに育つ理由。そして動物は近親者のためによろこんで犠牲になる。血縁が少し遠ければ多分そうはしない。この知の力は、ヒトのレベルでは「縁故採用」とか、養子は実子より虐待を受ける事実を説明するのに用いられる。 母鳥は、自分の子どもを捕食者から逃がすために、キツネの前でことさらにゆっくりと羽ばたく。片側の羽が折れたかのように曲げる。母鳥は命を失うが、しかし、母鳥のものとよく似た遺伝情報が、子どもたちのDNAに残る。(中略) あなたの子どもが、餓え、家もなく、重病なのに、あなた自身はおだやかに眠れるだろうか。しかしこの地上では毎日4万人の子どもが餓えや放置、病気で失わなくてもいい命をなくしている。ユニセフは一日数セントあれば充分というが、そのカネはどこからも出てこない。われわれがぐっすり眠っている間にも、子どもたちの死はつづく。しかしそれは遠いところの話で少なくとも自分の話ではない。これでも「血縁淘汰」が信じられないというひとがいるなら教えてほしい。(中略) イルカは、溺れているヒトを、鼻をすりよせて何度も何度も海面に押し上げ、しばしば海岸まで連れていく。この人命救助はどう考えたらいいのだろうか? 混乱して、のたうち回るヒトと、自分の子どもとの区別ができなくなってしまったのだろうか? イルカの観察能力が優れていることを考えると、そんなことはありえない。捨てられてさまよっていたヒトの子どもが、子をなくした母オオカミに拾われ、育てられることはどう解釈すればいいのか? 後部座席に乗せた自分の子どもの危険が増大するにもかかわらず、道に飛び出したイヌをはねるのを避けようと、運転者が懸命にハンドルを切るのはなぜか? ネコを救うために燃えさかる家にとって返す少年に何があったのか? —こうした他種生物に向けられる愛情や勇気は、おそらく血縁淘汰の誤作動から起こるものだ。しかし、こうした出来事は間違いなくあり、それによって何らかの「命」が救われていることも確かだ。それならば、たとえ血縁ではないとはいえ、同じくヒトに属している仲間に対しても、こうした利他的行動をとられる例が、もっともっとあってもよさそうに思える。 「血縁淘汰 — 利他主義」の章を、セーガンはこのように結ぶ。 そして今、ヒトと他の動物との切っても切れない関係は、一種の盲目的な感傷主義によってではなく、厳しい科学的な検証によって証明された。ヒトと他の動物、部分的に多様化してはいるものの、本質的にはなにも変わっていない。血縁淘汰は、生命の本質であり、小さな集団をつくって生活する動物に対しては特に強く働く。「利他主義」はほとんど「愛」である。こうした事実のどこかに真の道徳も潜んでいる、(「はるかな記憶」上巻 p-203-214) ことしの3-11記念日は、パーク・アヴェニューにある日本領事館で、安倍総理にあてて、手紙と花束を渡すというイヴェントではじまりました。代表4人が領事館メイル・ルームで代理のひとに手渡し、そのあいだ外にいる百人以上のぼくたちは、思いっきり大声で「原発ハンタイ!」「子どもをマモレ!」のシュプレッヒコール。多くのアメリカ人参加者も、ローマ字で書かれたメモを見ながら、訥々と「Kodomo wo Mamore!」と叫びはじめます。すばらしい! マンハッタンの街角で、思いっきりの大声で日本語で叫ぶのは、なんてキモチいいんだろー。夏時間になったばかりでお天道様が燦々と輝いている夕方、小春日和のなかをマーチ。Fukushima & Indian Point, NO NUKES! と英語と日本語とで叫びつづけて、タイムズ・スクエアにつくと、インディアン・ポイント原発からのデンキをめいっぱい使って、メッチャ明るいのでした。ここまで無駄遣いしなくていいのに… 異常な人工光の明るさに負けてたまるかとばかり、ここでもめいっぱいを超えたシュプレッヒコールの嵐!「Gen-patsu Hantai!! コドモヲマモレ!」 最初は日本語の意味が分からず、ポカンとしていた観光客も、原発反対の意志が通じるやいなや、人種を超えたおおぜいがぼくたちの列に入り、長いあいだいっしょに叫んでくれました。この国際的な「血縁淘汰」の誤作動は、きっと天に届いたと思いますよ。 いつもとおなじ大喧噪の広場から、一瞬すべての音がかき消され、底しれない静寂を感じました。ぼくたちが発した、透き通った日本語「コ・ド・モ・ヲ・マ・モ・レ!」のたくさんの母音たちがこだまのように響きます。そのこだまを、耳を澄ませてとても注意深く聴いている大集団がいる。それはここタイムズ・スクエアに集まった群衆の数よりもあきらかに多いのです。かれらはヒトの形をしていないが、多くが原爆や原発を含む原子力や、戦争で、匆々とこの世のいのちを奪われた者たちではないでしょうか。ぼくたちが「コ・ド・モ・ヲ…」と叫ぶと、かれらのほとんどが見えない小さな身体を震わせて、実に静かに聴き取っているように思えました。 賢治さん 宮沢賢治が生まれるたった2ヵ月前の1896年、明治の三陸大津波があり、かれが亡くなった年1933年3月3日には、昭和の三陸大津波があった。どちらも津波の高さ30m前後というから、すざましい被害だったという。地元の地質学者は三陸の地層をこう分析する。明治三陸大津波で運ばれた大量の土砂、そして昭和の大津波で運ばれたやはり大量の土砂。そのあいだの、今では数ミリしかない黒い堆積物が、宮沢賢治の生きた37年ということになる。 かれの底知れないやさしさに包まれた短い人生だけでなく、すべての人間の営みが、津波と津波のあいだ、天の意志に挟まれた限られた時間帯であるような儚さを感じる。そして三陸に関していえば、高い津波は決して想定外などではなかった。人間たちが想定できなかったといいわけに終始することも、いやあるいは想定することさえもが、天に対する冒涜のような気がしてくる。 冒頭の詩断片は、「春と修羅」のなか、農学校の教師である賢治が、生徒である子どもたちに稲作の実習をしながら語りかけた詩である。まるで人間の(あるいは賢治のなかの)純粋で透明な遺伝子というものが、雲や風を媒体にして子どもたちに「うつれ!」と念じているような詩… おなじ農学校教師時代の短編「イギリス海岸」では、泳げない賢治が生徒を連れて、かれがイギリス海岸と呼んでいた北上川岸に遊びにいく話がある。 私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。私はひとりで烈(はげ)しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺(おぼ)れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。 現代の倫理観から観ると、泳げない先生の賢治が溺れた子どもとともに死ぬことの向ふ側までついて行くことに、感傷以外のなにものもない。母鳥がキツネの前で小鳥のために死んで行く血縁淘汰ともちがうが、賢治は生徒たちとの深い血縁を感じていたにちがいない。ここで示された賢治の愛のことばは、生徒たちだけでなくそれを読むぼくたちに明らかに伝わる。透明な力が透明なまま、ぼくたちにも「うつる」。 一昨年アニメ化された「グスコーブドリの伝記」では、冷害の年に気温を上げるために火山を爆発させ、ブドリはひとり犠牲となって死ぬ。 ブドリは冷害による飢饉で両親を失い、苦難を経験し、学問の道に入る。そのあとかれはイーハトーブ火山局の技師となる。イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われる。火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガスを放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖められないか、ブドリは飢饉を回避する方法を提案。しかし、その実行のために、だれか一人が噴火から逃げることができない。犠牲を覚悟したブドリは、最後の一人として火山に残り、火山を爆発させる。ブドリ(賢治)の自己犠牲の精神がイーハトーブを冷害から救った。 宮沢賢治作品に造詣が深いオーストラリアの作家、ロジャー・パルバース氏はこう語る。 賢治は、風や雨、雪や水、空気や光といった自然の要素を通じて、全ての人間が互いにつながっていると信じていた。風に吹かれたその瞬間、私は土手の上で、賢治からのあるメッセージを確かに受け取った。彼が生涯を通じて多くの人々に伝えてきた、自らのメッセージ。すなわち、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より)ということ。私は、賢治のこと、そして彼が私たちに残したメッセージのことを考えた。今回の震災は東北地方の人々だけが被った災禍ではない。この地球上の一人ひとりが直接被った災禍だ。 私たちが将来、さらに大きな、想像を絶する災害から救われることになるなら、それはおそらく、宮沢賢治によって送られたメッセージの賜物だろう。風と、空の光を通じて、私たちに送られたメッセージの。 これら賢治のことばは、雲や風、空からの光を通して、そのまま透明にぼくたちに伝わる、入り込む、うつる。ことばの伝子は賢治の詩のなかに満載しており、ぼくたちはそれに目を通し、反芻する。それだけで賢治の遺伝子ならぬ「魂伝子」がぼくたちの体内に入り込む。 どの童話、どの詩を読んでも、賢治のことばは「死」と隣接している。そのことばたちが「魂」を伝えているのだとしたら「遺伝子」とはまったくちがった創造主の意図を感じはじめてくるのだ。 村上和雄の「遺伝子スイッチ・オン」 前々稿にも登場したが、最近、ふたつの映画と著作で大ファンになった遺伝子学者・村上和雄はこう語る。 ヒトの遺伝子情報を読みつづけていて、これだけ精巧な生命の設計図をいったいだれがどのように書いたのか。もしなんの目的もなく自然にでき上がったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間を超えた存在を「サムシング・グレート」と呼ぶようになった。ヒトのDNA遺伝子は32億の階段でできている。そしてヒトが生まれて、生きていく確率というのは、1億円の宝くじに百万回連続で当るのと同じぐらいすごいことだ、ともいう。 ドキュメンタリー映画「SWITECH(白鳥哲監督)」のなかで、村上和雄は、心が身体に強い影響を与えていく過程を説明する。ぼくたちの心が、生命設計図である遺伝子をSwitch On させるのではないか。その奇跡的なふたつの事例を解説している。 強い衝撃の事故で脳に重度の障害を持った女性が、家族の愛と笑いで、遺伝子をスイッチ・オンさせる。ありのままの自分を受け入れたとき、ほんとうの感謝があふれてくる。そして宇宙に「感謝」の量を増やす。出演者たちの言葉は、ぼくたちが営んでいる人生とごく至近距離にあり、ぼくたちが持っているものとまったくおなじ種類の「遺伝子」が On/Off していることを感じる。この予告編ヴィデオのあとに出てくる、村上和雄講演「Switchが伝えたい日本の役割」も、3-11に深く触れていてとても興味深いものです。(34分) 上述のC・セーガンの「はるかなる記憶」冒頭1/3の部分は、基本的にダーウィンの進化論に基づいている。自然淘汰と突然変異で進化し、そのなかから生存競争に勝ち抜いた「勝者」のみが生き残る。それが大自然の法則で、競争に勝ち抜いた者しか人生を楽しむことができない。競争は常にあり(現代社会では激化し)半分以上は敗者となり、敗者は淘汰されるべき存在ということになる。 ところがこのダーウィンとはまったく異なる「共生的進化論」という説が60年代に出てきた、と村上和雄はいう。「生物は優勝劣敗で進化してきたのではなく、お互いに助けあいながら進化してきた」というもの。 この進化論によると、大腸菌のような原始細胞は、核を持つ細胞に進化するとき、それまで存在していたいくつかの単純細胞やその一部が、ひとつの新しい細胞を形成し、お互いが協調的な働きをすることで変化を遂げたという。遠いむかし、ほとんどのバクテリアにとって酸素が猛毒だった時代、酸素を老廃物として吐き出すシアノバクテリアが現れ、たくさんの単細胞生物が死んだ。残った者は酸素耐性を獲得するように変異して生き残ろうとした。そんななかシアノバクテリアは、自分の身を酸素から守るため、別の酸素耐性を獲得したバクテリアの体内に入り込んでしまった。突然自分の体内に酸素が作られるようになったバクテリアは自分の遺伝子を守るために膜で囲い保護した、こうして核細胞ができ、そのあと酸素を呼吸に使う棒状のバクテリアが入ってきた。すると体内で造られた酸素がうまく消費できるようになった。このように協力し、入り込んだ二種類のバクテリアは、その後一体化して現在のぼくたちの体細胞のなかのミトコンドリアとなって残っているという。 そしてまた、村上和雄はこうもいう。 ケニアのトゥルカナ湖で発見された150万年前の類人猿の遺跡には互いに食べものを分かちあい、助けあって暮らした痕跡は見つかったが、強いものが弱いものを圧迫したり、闘争した形跡はまったく見つからなかった。 ふたりの科学者の話が相関しているが、原始細胞から核細胞への協調的進化とまったくおなじ記述が、C・セーガン「はるかなる記憶」にも登場する。セーガンの最初の妻ドリオンの母のリン・マーギュリスはこの「共生進化論」の主提唱者であった。「血縁淘汰」の話も、この共生進化論からの発想である。 弱肉強食は人類史のなかでは当たり前で「しかたのないもの」だったが、それ以前の生物史のなかでは「そうではなかった」ということに、大きな勇気をもらう。リン・マーギュリスは重ねて「進化の本質は普遍的協調にある」という。微生物を光の当る閉じた箱の中に入れておくと、微生物の種類が多いほど系全体の安定性が高くなる。ヒトも自分達を環境破壊の危機から救うために、少しでも他の種を守って共に協力して行かなくてはならない、と呼びかける。 セーガンは、この「共生進化論=わたしたち—あなたたち」の稿の冒頭に、ユダヤの民による旧約の言葉を引用している。 私たちは親類どうしだ。 わたしとあなたのあいだではもちろん、 お互いの羊飼いのあいだでも争うのはやめよう。 (—「創世記」第十三章第八節・新共同訳) だが視点を現在のパレスチナのガザ地区に移すと、イスラエルの民の原点であるべきこの共存の志向は、まったく忘れ去られている。一方的な兵力で一般市民を殺戮し、ガザの浜辺で遊んでいた子どもたちさえをも狙って砲撃した。これらの残虐な映像はマスコミが隠蔽しても、ネットに乗って世界にばらまかれる時代になった。今回イスラエル軍はガザに、ガンの発病を誘発する効果を持ったDIME爆弾を落としている。ガザ市民を空爆で殺したり怪我をさせると、国際的な非難の対象になるが、何年か後にガンを発病させるやり方なら、イスラエルの爆弾との関連性をごまかせるので「効果的」にガザ市民を殺せるというわけである。 かたや矢も盾も堪らなくなったパレスチナのハマスは、精度の悪いミサイルではあるが、イスラエル南部ネゲブ砂漠にあるディモナ原子力センターに向けて発射した。これからの戦争は、稼動非稼動にかかわらず、原発や原子力施設を狙うことが常習化するだろう。国内に50基の原発を抱えながら「戦争!」と息巻いている日本の首相はまったく気が狂っているとしか思えない。 戦争は人間をかぎりなく残虐にする。戦争に参加しているすべての人間の遺伝子を拒否しなければならない。それは多分ぼくたち全員がもっている負の遺伝子なのだろうが、その戦争遺伝子のスイッチをオフにするだけですむのではないか。 幸いイスラエルの若者のなかにも、兵役拒否をする者、戦争での残虐性を語り反戦を強く語る者が増えている。NYCではこの3月と6月にユダヤ教ウルトラ・オーソドックス派五万人によるイスラエル反戦デモがあった。少なくともかれらは旧約の教えを忠実に守る遺伝子をオンにしている。 旧約聖書は、ヨーロッパから移民してきたここアメリカの民の原点でもあるわけだ。人類が生きていくための「共生」を忘れて、パレスチナの子どもたちを殺戮しつづけ、なんの近代国家か。上記の旧約のアブラムのことばは、このようにつづく。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。 そのことは、当時からこの地球に無限の土地があったということではなく、人間同士の「愛」によって、共生が可能だということ。少しづつの我慢をすれば、いくら人口が爆発増加をしようが、お互いが快適に生きていく道筋ができるということである。 いま、ぼくたちひとりひとりの存在が、肉体が、地球全体の環境と密接に結びついていることに気づきはじめた。地球温暖化、放射性物質の拡散、遺伝子組み換え食品の蔓延。まさに太古のバクテリアが毒素である酸素の危機に直面した時と同じような状況、いやそれよりも数等倍過酷な状況を、ヒトであるぼくたちが造り出したのだ。協力しあうか、それとも死滅か。この破局を乗り切るために、全人類と全クリーチャーの協調が不可欠なのだ。 魂の伝子へ こう言いますのには、私の方でも、胸にとかくと思い迷いつ、この世を去った私の母の瑰霊を、手に捉えようと思いつめて、三度まで飛びかかりました。捉まえようと心の命じるのに従って。だが、三度とも、私の手から、影とひとしくまた夢みたいに、ふわりと飛んで逃げてしまい… (ホメロス「オデュッセイアー」呉茂一訳) カール・セーガンは「はるかな記憶」のなかで「霊魂」についての古典を実に多く引用している。かれは霊魂と進化論との関係をこのように述べる。進化という概念がなければ、動物や人間に宿る「霊魂」の存在を信じることができる。逆に、進化を信じれば、その存在は危うげなものにならざるをえない。 霊魂のことを「非物質の力」と断言していることからも、その存在を強く意識はしているのだが、科学者としての記述は否定的なものが多い。 NJに住んでいるころ、チュニジア人の大家さんが、パレスチナ人やエジプト人を集めて、イスラム教徒のパーティーをしていた。同居人として誘われ再三参加した。そこに集まった多くは、ダーウィンの進化論を徹底的に否定する。「おまえはガッコで先生に習った通りを信じているんだろう、あわれな者よ、アッラーに栄光あれ。」と言われ、最大限の抵抗はしてみるのだが、途中からダーウィンの肖像を思い出し、それ以上かれの弁護をする気力を失ってしまった。相手とこころの基盤がちがいすぎる。地球に住む30%以上の人たちは、ダーウィンの進化論など知ろうともしない。ただ、ダーウィン抜きのかれらの遺伝子は、アッラーのせいか、底ぬけにやさしく感じたことだけは付け加えておく。 村上和雄は遺伝学者という科学者でありながら、著書「生命の暗号」のなかで「魂」と「転生」について、実に興味深い連想をつづける。 「死んだら生まれ変わる」という人たちがいます。何に生まれ変わるのか。一般に考えられている生まれ変わりとは、自分の魂みたいなものがあって、それが体に宿ってこの世に現われる。この魂の連続性を生まれ変わりと称しているのです。だが魂がどんなものであるかは定義できていません。ただ魂は連続していて、死んで肉体が滅びても魂はなくならない。死ねばその肉体から離れるが、また別の肉体を借りてこの世に現われる。これらのことは(村上氏のご専門である)遺伝子のレベルでは説明できません。遺伝子は物質であり、魂を物質レベルで説明することは、いまのところ無理なのです。とはいえ、説明できないことが「ないこと」にはならない。私も魂は「あるのではないか」と思っています。 ただし私の考える魂は、いまの自分が意識している心ではありません。一般に、意識できるのは心であり魂ではないと思うのです。つまり魂とは無意識の世界と関係するのではないか。魂はあるけれど、自分でも通常は意識できないもののように思えるのです。 心はうれしくなったり、悲しくなったり、怒ったりします。しかし死んだら心はなくなるのです。心とは意識の世界であり、肉体と不可分です。肉体と不可分なものは、死んだらなくなっても不思議はありません。 ところがここに無意識の世界というものがある。これは自分でもはっきり意識できない世界ですが、この世界が魂とつながっているのではないか。魂は無意識とつながっていてそこからサムシング・グレートの世界に通じている。昔から神仏の世界が理性や意識の範囲だけではわかりにくいのは、このためではなかったかと思われます。 遺伝子DNAの構造モデルを提出したフランシス・クリックの書いた「DNAには魂があるか」という本の結論は「遺伝子には魂がない」というものでした。遺伝子は物質としての人間の連続性を伝えていくが、魂というものはそれとは別次元で考えなければならないもののようです。 ということは、遺伝子が全部読み取られたとしても、魂のことはわからない。魂がわからないということは、生命の本質もわからないことだと思います。いままでは心と魂をごっちゃにして議論することが多かったためにわかりにくかった。心と魂を分けて考えれば、生と死の問題がかなりよくみえてくるようになります。魂は私たちの根源的なものなので大切であることは事実ですが、生きているときは肉体も心も大切。この二つがあってはじめて生きていられるからです。そして生命の設計図である遺伝子は、この二つにかかわっていると考えれば、私たちが遺伝子とどうつきあえばよいのかも、自ずとわかってくるのではないでしょうか。(「生命の暗号」村上和雄 サンマーク文庫・p-238−240) 遺伝学の分野からは解明できないとしながらも「魂」が存在し「輪廻転生」に言及されたことはすばらしい。「魂」が物質でない以上、科学で解明がむずかしいことは事実だが、新しい素粒子物理学が、さまざまな魂というものの認識領域を拡大している。 ただ「魂」とは自然科学から分析するものではないとも強く感じる。それよりも上述の宮沢賢治のことばや、ほかの詩人たち、ミュージシャン、ア−ティストの表現するもののなかに、魂を直感で分析できる多くのものが含まれている。そしてそういった直感は、アーティストでないひとを含めた、すべての人間の心がもった「遺伝子」のごく当たり前の働きであるように思える。 フロイド→ユングが提唱したように、顕在意識とは無意識という大きな氷山の、海上に飛び出た一角という認識。ぼくたちの身体は、祖先から受け継がれた遺伝子で構成されているが、心の中にも古代から伝えられてきた要素があるとユングはいう。その「元型(アーキタイプ)」は、自分の祖先から、というより、全人類に普遍的に存在するものとしている。物質と非物質、遺伝子と魂伝子はまったくちがうものではあるけれども、同一の生物の表現する「時制のちがい」だけのような気もしてくる。 紙数が尽きてきた。このシリーズの次回はユングの深層心理学から出発して、ルドルフ・シュタイナー「神智学」の片鱗に触れてみたいと考えている。 3-11の津波で多くの被災者が出たとき、遺伝子学者・村上和雄が語ったことばを最後に、この稿を閉じる。「魂の転生」=「魂伝子」について書くべき人物、書くことが溢れ出てくるが、おなじタイトル「遺伝子から魂伝子へ」の続編として書きつづけたい。 遺伝子暗号が解読されてわかった非常に大きなことは、微生物も昆虫も植物も動物もヒトも含めて、みんなおなじ遺伝子暗号を使ってるんですね。ということはみんなつながっているということなんです。山も川もすべての自然体がつながっている。大きなひとつのもとにつながっている。震災に遭われた方も遭われなかった方も、みんなつながっている。 私は魂は生きていると思う。ほんとうに悲しいけれど(なくなった方の魂は)どこにも行っていない。そして私たちを見守ってくれて、と思っている。そのために私たちはそれを真摯に受けとめて、その方たちの死を無駄にしてはいけないと思うのです。(村上和雄・談話) あすこの田はねえ あの種類では窒素があんまり多過ぎるから もうきっぱりと灌水(みづ)を切ってね 三番除草はしないんだ ……一しんに畔を走って来て 青田のなかに汗拭くその子…… 燐酸がまだ残ってゐない? みんな使った? それではもしもこの天候が これから五日続いたら あの枝垂れ葉をねえ 斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ むしってとってしまふんだ ……せわしくうなづき汗拭くその子 冬講習に来たときは 一年はたらいたあととは云へ まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた いまはもう日と汗に焼け 幾夜の不眠にやつれてゐる…… それからいゝかい 今月末にあの稲が 君の胸より延びたらねえ ちゃうどシャッツの上のぼたんを定規にしてねえ 葉尖を刈ってしまふんだ ……汗だけでない 泪も拭いてゐるんだな…… 君が自分でかんがへた あの田もすっかり見て来たよ 陸羽一三二号のはうね あれはずゐぶん上手に行った 肥えも少しもむらがないし いかにも強く育ってゐる 硫安だってきみが自分で播いたらう みんながいろいろ云ふだらうが あっちは少しも心配ない 反当三石二斗なら もうきまったと云っていゝ しっかりやるんだよ これからの本統の勉強はねえ テニスをしながら商売の先生から 義理で教はることでないんだ きみのやうにさ 吹雪やわづかの仕事のひまで 泣きながら からだに刻んで行く勉強が まもなくぐんぐん強い芽を噴いて どこまでのびるかわからない それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ ではさようなら ……雲からも 風からも 透明な力が そのこどもに うつれ…… 宮沢賢治『あすこの田はねえ』下書稿(二)/春と修羅第三集 「(2)反戦という名の魂伝子」につづく
by nyckingyo2
| 2014-07-19 22:08
| 遺伝子から魂伝子へ
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