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秋深き となりは iPad で描くひとぞ 「秋はすべての季節を包括している。」だれか著名な文学者がそんなことを言ったような記憶があるが、ことばとして平易にすぎるので、やはり自分の妄想から出てきたものかもしれない 。季節の秋が、春夏秋冬の気温を含有しているという意味ではなく、特にこの北国ニューヨークの秋は、この人生の移ろいをすべて表現している気がしてしようがない。この向寒の季節には、白銀の世界と、張りつめた透明な空気感に恋い焦がれている自分がいる。あるいはまた逆に、目の前に押し寄せる激寒の恐怖から逃れようと、それ以外の春や夏という季節に対しても、こころがさまざまに思い入れてしまうということなのだろうか。 それにしても、チェルシーのアートの秋は奔り去るようにすぎていく。それら四季への思い入れを、すべて強い風とともに吹き飛ばし、ここまでやって来るのに開けた夏の扉とは真逆の方向へと逃げて行く。肩の力を抜いて、短い論評とヴィジュアル中心で、NYCのアートシーンを、秋風とともに簡単に紹介していくコーナーを創ろう、と思い立ったものの、どうやらその秋の逃げ足には勝てそうもない。 Pace Gallery 25th St.のこの秋のトップバッターは David Hockney。なんと"The Arrival of Spring"と銘打って開催。いままでのかれの作品と明らかに異質な魅力にとらわれて、結局秋が深まるたびに、この老舗ギャラリーでのホックニーの「早春」を数度も観ることになってしまった。画廊正面にはかれがデジタルカメラ9台で撮影した、英国イースト・ヨークシャーの冬景色の動画。分断された雪化粧の木立がブルブルと震えて、北国の春を待つ気分が伝わってくる。 In 2010 and 2011, Hockney made these digital videos of Woldgate Woods in East Yorkshire. He shot one video during each season by mounting nine digital video cameras on an SUV and having an assistant drive slowly down the lane. The videos are now on display at the de Young Museum in San Francisco as part of "A Bigger Exhibition." 上の複眼動画は、高性能の9台のヴィディオ・カメラで撮られているが、ホックニーがヨークシャーでふだんのスケッチがわりに使っていたのは iPad。ギャラリーの壁には、ホックニー自身のことばとしてこんな風に書かれている 。 「それまで iPhone でドローイングしていたが、2010年6月に i-Pad を手に入れて、次の春が来るまで半年の間、 iPadドローイングがはじまった。」ホックニーが iPad を持って子どものようにはしゃいでいる様子が窺える。「( iPad で撮り)信頼できるサイズでプリントしたことで、印象はとても変化に富んだものになった。」 ヨークシャーの自然のなかで、IT器具をふり回してアートするホックニーに「都会のネズミ」アーティストである金魚は、あるいは逆説的な嫉妬しているのかもしれない。自然を描き写すのはiPadなどではなく、絵筆が当然だろう。絵筆の先に iPad をつけて描くなんぞは、NYっ子のやるもんじゃねぇや。 そこまで考えたとき、いきなり小学生の団体がギャラリーに乱入(?)してきた。なんと生徒全員が iPad を持っているじゃないか! ホックニーが iPad を使って書き上げたドローイングを、これまた iPad の大きな画面を見ながらパシャパシャ撮りはじめた。ギャラリーのwi-fiに繋げて、先生のホックニー講座がはじまる。 なるほどね、いまや iPad は、ただのカメラのかわりではなく、大きなファインダーで細部まで確認しながら、イメージを焼き付ける新しいヴィジュアル・ツールなのだ。おまけに教科書もノートも兼用している。この子たちも教室に帰ったらすぐに、ホックニー先生の開発したこの iPad ドローイングをはじめるにちがいない。 そういえば、ホックニーも長年、ロサンゼルスに住む都会のネズミだったではないか。当時ベイエリア(サンフランシスコ半島一円)に住んでいた金魚は、LA発のアメリカン文化を徹底的に毛嫌いしていた。いまだにハリウッド発の映画文化が、新自由主義のハシリとなり、この地球を変えてしまったのではないかと疑っている。 が、その土地から発信されたチャップリンの映画とホックニーの複眼ドローイングにだけは執着していた。映画のフィルムをコマ割りに並べたような連作は、絵筆の先にカメラをつけて描いたようだった。写真という無機的な素材を、ひとの体温が伝わる温かい作品に仕上げた。 60年代に、生まれ育ったイギリスからニューヨークに渡り、ウォーホルと会ったことが、このアーティストの複眼発想に火をつけたと思われるが、でき上がった作品の雰囲気は真逆となった。 ウォーホルはシルクスクリーンでくり返されたフォルムのなかから溢れ出る「死の世界」を狙いつづけたが、ロサンゼルスに移住したホックニーは、温かいカリフォルニアの気候の鷹揚な代弁者となった。 ホックニーの作品は複眼的写実主義といえる。キュビズムとの近日点をさぐる評論もあるが、アメリカを代表するようなあっけらかんとした複眼視点は、自然を自然のままに写し込んでいるようにしか観えない。ただ一つの画面に一つの写真を焼き込む作業と、となりに写し出された画面の輪郭あたりが微妙にずれていく。それはかれの昆虫並みの複眼(=細部を即時的に分析する画像の集積)の継ぎ目のせいかもしれない。 子どものころ、夕方になると、自宅前の山に向って猛スピードで登ってくる巨大なオニヤンマを網で捕え、かれの複眼を観察していた記憶がある。実に精巧な複眼を持っていて、ツバメ返しならぬトンボ返しのような技を使わないと、なかなか網に入らない。身体の大きさにくらべて、眼というにはあまりにも巨大な地球儀のような、六角形の集積による球形は、宇宙のすべてを観つめているぞ、という印象があった。ひとつのものを多方向から観ているわけではないが、いちどきに360度の宇宙全体を観渡せる眼なのではないか、と。 朝日新聞:ののちゃんのDO科学 「トンボの目玉はどうなっている?」より 複眼は、空間の分解能力は低いけど、時間の分解能力は高いのよ。具体的にいうと、人間の目だと、1秒間に15~60回程度の明暗の点滅しか見分けられないけど、ハエなどは1秒間に150回もの明滅まで見分けるそうよ。つまりすばやい連写ができるカメラみたいな目ね。同じ時間でも、多くの画像を切り取って見られるのよ。 人間の精神は、同じものを観つづけているときも、同瞬間にまったくちがうものを観ようとさせる作用がある。そのこころと眼の二重画像の差異を、できるだけ安定した精神のなかで(たとえばヨークシャーの風景と、熟年の精神のなかで)表現すると、一画面の輪郭付近に微妙なズレが生じていく。ミツバチの帰巣本能はその精巧な複眼のせいだといわれるが、ホックニーの複眼も、カリフォルニアから離れて、生まれ故郷の英国ソルテア (Saltaire)近く、イースト・ヨークシャーに戻ったことで、深い洞察力がさらに増したように感じるのだ。 もちろん、訪れたこともないヨークシャーの自然の色たちが、ここマンハッタンのギャラリー空間に再現される。複眼で観た i-Pad の数多くの画像は、すべてホックニーのドローイングのなかに、一枚の二次元の習作のなかに集積し、観客の、別な複眼を通した頭のなかで、再びホンモノのヨークシャーの道の風景として現われる。 ホックニーが近年になって「ヨークシャーの道」に執着していることに興味をもつ。上のヴィデオの映像は、9台のカメラを積んだクルマが、ゴトゴトと土の道をひとの歩く早さで歩んでいく。複眼の情景もゆっくりと移動する。しばらくディテールを観つめつづける時間がすぎて、いつの間にか全体の風景はがらりと変わっていることに気づく。あるいは冬景色は春になり、秋になり、夏の扉のある場所に戻る。 世の中に「クリエイティヴの道」というものが存在するならば、それは春から夏にかけて植物が生長し、秋に人びとがそれを収穫し、その収穫を蓄えながら冬を越える。まさにその収穫の秋から春までの半年が、冷静な気温と沈思黙考をつづけることができる、創作に没頭できる「クリエイティヴの道」なのではないかと考えている。 「人生の秋」に際して、それを「クリエイティヴの道」の出発点と認識したアーティストは、それまでの人生で培った深い洞察を込めることができる。ホックニーが「ヨークシャーの道」を描きつづけるのは、モネが晩年「睡蓮」に執着し、200点以上制作したことと似ている。10月からMoMAで、ヘンリ・マチスの晩年の集大成展 "The Cut-Outs" がはじまったが、ミュージアムのハーフ・フロアを覆い尽くしたそのアーティストの「切り絵」への執着もすごい。 もう、ヨークシャーに訪れたことがない、などといいたくない気分が蔓延してくる。都会のネズミ・アーティストでありつづける金魚には、十二分に行動的な、能動的な、魅力的な「道」=自然が、このギャラリーに存在している。そして今度こそ、自分の複眼を開発し「クリエイティヴの道」をみつける誓いをたてる。 晩秋の午後、数度目のギャラリーを出て、セントラル・パークへと向かう。遅い秋の木立は、風に舞いながら万華鏡のような日差しを降りそそがせ、眼も眩まんばかりの色彩を振りまく。眩みながら、ホックニーの描いたのとおなじ複眼の「春の訪れ」や冬の世界がパークに具現しはじめ「ああ、やはりこの秋という季節は、この星のすべての季節を包括している」との実感を重ねた。 了 このようなイメージのあいまいな重複、という意味でも、ホックニーの「複眼」と呼んでいる。 今回の Pace Gallery, Chelsea の秋の「早春」は、比較的小さなドローイングが集められていましたが、より広い Royal Academy, London と Köln, Germany の美術館の映像で、ホックニーの真骨頂、複眼でみた巨大作品をごいっしょに鑑賞いたしましょう。 David Hockney at the Royal Academy, London David Hockney: A bigger picture - Ausstellung im Museum Ludwig, Köln (pop art landscape paintings) Published on Feb 9, 2013 こちらは、9x2=18台の複眼によるヨークシャー。 Hockney Wolds 9 Cameras
by nyckingyo2
| 2014-10-27 11:19
| NYC・アート時評
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