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般若心経のなかで使われている言葉の四分の一は「知性」を意味する。 ブッダ(buddha)、ボーディ、ブッドゥ(budh)の語源にはたくさんの次元がある。* 「覚醒」からはじまる五つの次元。 「金魚!起きなはれ!いつまで寝とるんや!アカガミが来たでー!」—ずいぶんまえに天国に行ったはずのおばあちゃんが初夢に出てきて、そう宣わった。毎年この時期、夢におばあちゃんが登場するのだが、ことしはなにやら切迫している。ちなみに去年の初夢のなかのかの女のことばは「ずいぶん長いこと寝てたね。年も明けたし、そろそろちゃんと起きなはれ。人間ちゃんと起きたら、脳はけっこうテンサイ的な働きするんやで。」てな感じで落ちついたウンチクが含まれていた。ことしは、かの女持ち前のけたたましい語調で「アカガミー」と叫ばれたとたんガバッと布団から飛び起きた。もはや高齢者のぼくに徴兵令が来るわけはないのだが、そこが夢の便利なところで、陸軍歩兵甲種合格の凛々しい若者に転じている。 それなのに、暮れの抜き打ち衆院選挙には、寝たまま投票箱にたどり着き、上司にいわれたままに<自民党>と書き「虚無の世界」をさらに拡散させた許せないニッポンの集団人格たち。「まるで… そこに目をやると、急に盲(めしい)になったような」世界が、幻の国ファンタージェンの全土に押し寄せてきます。 もちろんこのブログをお読みの読者諸氏は虚無の拡散を必死で食い止めた方たちなので、こんな失礼なグチを言ってもしょうがないんですが… だからついつい「あけまして お、お、お、起きましょう!」というおばあちゃんからの挨拶になっちゃったわけです。新年早々おめでとうと言いにくい年は多いけど、ことしはほんとうに言いにくい。 素直に新しい年を祝う気にならないし、このまま書きつづけるとグチのかたまりになるので、6年も前の古い年のご挨拶をそのまま貼ってごあいさつといたしまする。これがなかなか冴えてるというか、のんびりした口調のなかで正月気分が味わえる。おまけにことしのテーマ「覚醒」にぴったりおなじ。それにしても6年まえの日本は原発も爆発してなかったし、秘密保護法もなかったし、いまよりずいぶん平和でしたね。なつかしいかぎり。 同時に、6年間で世界はなにも変わっていないとも感じます。だから6年まえの「起きましょう!」と、ことしの「起きましょう!」の覚醒しなければならない程度はおなじ。もしくは、みんながそこからゼンゼン覚醒しないで、眠りつづけていたとしたら、ことしが終わっても起きられないとしたら、ことしの政夢(まさゆめ)の結末は実に悲惨なものに終わる、とだけ書いて、古いブログに戻ります。 — 2015年・元旦 金魚 アルティザンとしての芸者仕事すら半ばほっぽり出し、ひたすらやりたいことをやりつづけたわが半生を、少しだけでもふりかえってみようか、と一念発起、ちょうど1年前(2007年暮れ)にブログというものを立ち上げ、仕事の合間にこつこつと書きつづけ、ブログ史上最長をめざした長い長い文章を、完璧とはいかないまでもそれなりにつづけて読んでいただいている方々もどんどん増えつづけ、ときには送り返されてきた誹謗だけのようなひどいコメントに愕然とし、それでもがまんして書いていたらどこかで態度が通じたのか、だんだんデリケートでこちらのこころに通じているコメントが徐徐に増えはじめ、それらを読むにつれ、他者とのコミットメントがいかに大事かこの年になってやっと痛感しているうちに年があけ、あけましておめでとうございます、今年もつづけて半玉で、できれば永遠に半玉のままでいたい金魚を、よろしくごひいきのほどを、返事が書きにくいと思うけど、なんでもいいからもっとコメントちょうだいね、と一息の長文でした。 元旦の夜、おばあちゃんからこれを枕の下に敷いて寝るように、と日本手ぬぐいを渡され、その絵柄が富士の麓に舞う鷹と舞うなすび。富士と鷹は子供ごころにもなんとなく理解できたが、なすびだけはイメージの方がついていかない。絵に書いたものより実際八百屋に並んだなす。むかしは泉州産の水なすなんてイキなものはなかったけれど、さっぱりしたなかに芳醇な食感があり、女性のおっぱいをかじったらこんなにおいしいのかしら、大好物です、などという変わったことを平気で言う子供だった。 近所の宝塚にあった手塚治虫先生の実家に押しこんだ翌春には、どうぞ日本一の漫画家になれますように。若き小沢征爾氏の指揮ぶりを観た翌春には、どうぞ世界一の指揮者になれますように。祈る思いで初夢祈願。ノウノウ、初夢は祈願するもんやあらへん、神サンがやって来て自然に見せてくれはんねん、何も考えんと寝とうみ、というおばあちゃんの言に従い、何も考えずに寝たら、まったく何の夢も見ず二日目の朝となり「金魚、お雑煮ができてまっせ、はよ起きなはれ」 おばあちゃんの声にガバッと布団をあげたが、はるか昔に彼岸への旅に発たれたかの女の姿はむろんなく、かわりに娘がピッツバーグから帰っていた。今年の初夢は、あぁ古きよき日本のお正月。今年も不景気で日本に帰れなかったなぁ。まあいつもどおり、お餅とお雑煮だけでもよしとするか。しゃーないね。 とはいえ、ここ数十年、仕事の休みは元旦一日のみ。そのかわり感謝祭もクリスマスもうんと休んだでしょう、仕事がなくて平日もいっぱい休んでいるでしょう、いい加減一銭にもならないブログを書くのに膨大な時間を費やすのはやめて頂戴、と妻に諭されるが、いまだにお正月が極端に短いのがどうしても納得がいかない。 年越しで、不景気はもちろんのこと持ち越され、戦争までたくさん持ち越された。数年前まで僕も住んでいたNJの一地区に、たくさん住まれていたパレスチナからの移民たちの顔が浮かぶ。みなさん彫りの深い絶世の美男美女が多く、故郷を離れてこのアメリカで生きるための実に苦渋に満ちた決断が顔に表れていた。それら精悍な顔たちがどのような気持でこの新年を迎えられていることだろうか。 二日遅れの日本の年末の新聞を開けると、これが実に暗い話題ばかり。アメリカのTVニュースは、大晦日の馬鹿騒ぎを筆頭にあいかわらずあっけらかんと楽しそうなものが多い。いったいどちらが不況の元凶の国であるのか、さっぱりわからん。 日本に棲まれる方、特に江戸の気が短けぇ人などは、アメリカにいて日本のことなどわかるもんか。満月の夜は月の世界からかぐや姫などが真正面の日本の国のことはお見通しだが、ニューヨークなんてぇとこは地球の裏側、かけらも見えやしねえ、そんなとこに棲んでて日本のことなどとやかく言われる筋合いはネェや、てなわけです。一理あるかも。 そんなとき「都びと」ぶって「私は(NYCに住んでいるから、日本のことが)客観的に見れるんです、あなたとは違うんです」などと言いそうになるが、これは売り買い言葉のジョークで、まったくそんなことは思ってません。思えばあの福田前首相の退任会見の言葉が、差別意識というか、日本が封建世襲制資本主義国家ということの象徴ですね。えぇ、アッそう現首相の言葉はもっとひどいですね。だから世界中の日本文化を高く評価している人たちにまで、日本の政治だけは<白痴>と言われちゃうんですね。 昨日はロンドン、明日はリオなどと世界をまたに駆けめぐる日本の商社マン様などには、相対性の時空効果が働いて、どんどん若返られているのだろうが、いったんアメリカに移民してしまった我が身には、日本の記憶が30年前でピタリ止まってしまっておる。そいで時たま帰国したりすると、わーぉ、クールジャパン、カッコいいやんけ、やっぱりこっちが都や、てなウラシマ効果といいますか、むかしいたころとはさまざまな変り様を楽しんでおりますが、三日も経つとそれにも完全に飽きて、表面的なピカピカ清潔の底にあるホコリのような歴史伝統っちゅうか、そんなもんが現出してしまって、なんや子供のころとなんにも変っとらん、アホらし。そのまままた逃げるように第二の故郷に飛び帰ると、その第一の故郷にあった心象風景にはますますホコリがかかり、「なんやあの国は、むかしのまんま、まだ鎖国やっとるの」とかいうことになります。 松蔭や龍馬が祈るように死んでいった民衆のための政治の夢、ここでは「政夢」と書いて「まさゆめ」と読むことにいたしましょう。明治維新が興って近代国家の道を邁進してからもはや150年、議事堂では重要審議とやらが長引くほどに、居眠りをされている議員が続出し、それがTVに映る。あぁ、きっと国民のためをお考えになって「政夢(まさゆめ)」をご覧になってあそばしましやがっているのではないか、と想像しとるのですが。例えば「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」のだからせめて自分とこの選挙区民が全員ですね、最低限度の生活を営んでいる夢とかをですね、見てはるわけです。ホントかなあ。 ところがどっこい、この議事堂には(新年早々ナンですが)大きなオバケが巣食っておる。体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎に似ているというから、なんともすてきなカワイ子ちゃんかなとも思ってしまうのですが、その昔、神が動物を創造されたとき、余った半端物を用いて創造したというかわいそうな「獏ちゃん」という珍獣であります。(なんだか「ほるもん」の語源と似た感じがしますね)実はこの獏、一説には鉄や金属製の武器が主食でバリバリ食べることから、ありがたい平和の象徴として神社にも多数のお仲間が祀られていますが、このご時世、武器はすべて戦地で大忙しで、獏ちゃんの口のまわりまでは届きません。今回のご登場はおなかが減った獏ちゃんが「夢」をも食べてしまうという習性をムキダシにしたことからであります。 そいで、議事堂の中では、あいかわらず「牛歩戦術」などとモウしまして、ノロノロノロノロ、議員によっては壇上までたどり着いて止まったまま議場全体を見やってウシさんのようにニヤリ、気持ワルイったらありゃしない。実に眠気を誘うっちゅうか、やはりどうがんばっても寝てしまう。みなさんも受験勉強とかでご経験があるでしょう、エーザイ・カーフェ(古いね)とか飲んで無理矢理起きていようと思ったらますます眠くなる。まったく朦朧としてしまったとき「自分の選挙区民がすべて、健康で文化的な最低限度の生活を営んでいる」という「政夢(まさゆめ)」をご覧になる。ここで獏ちゃん登場、「その夢クレや」とまるでボビー・オロゴン氏みたく低音で囁きかける。ホントは悪夢を見た後に「この夢を獏にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見ずにすむわけですが、この際議員先生はなぜかその「政夢(まさゆめ)」などをも二度と見たくない、と感じておいでになって、さっさと獏ちゃんにその夢をあげてしまわれてしまったのです。しまった。 かくして美しい国をつくる政治の夢「政夢(まさゆめ)」はバク獏バク獏と喰われてしまい、あとに残るは言わずとしれた、まったく夢のない政治。まったく夢のない社会。これが民主主義などと言えるしろものでしょうか。 世界でも数えるほどの貿易最先端国ですから「鎖国」なんてしていませんよ、といわれるが、たとえばアメリカから客観的に見ていると精神文化的には、家光公以来、まったく変っとらんのです。 「金魚という者は30年も国外をフラフラし、国籍を留保しつつ、わが国に何の利益ももたらしておらぬ。あげくの果てに海外よりわが国家を誹謗中傷しておる。あの者が再上陸せんとすれば、直ちに切腹させよ」「なぬ、シカゴに住む米国籍の南部某という者が、ノーベル賞を取ったとな。日本国籍を有しとる時の研究であるから日本人として直ちに勲章を与えよ。なぬ、いらぬとな。アタマのいい人だけが海外に行っちゃって困っちゃうジャン」 僕が鎖国というのは、そのむかし御公儀将軍家の御為、と言っていたのと、例えば現在はトヨタ家の御為と言っているのがまったく変っとらんと言っとるのです。 いまは世界的な消費が一時的に低迷していても、クルマの国、アメリカ人の誰でもがのどから手が出るほどほしい世界に冠たる日本のクルマ、その自動車業界が、派遣切りだって! ビッグスリーはいまは青息吐息でも、もし生き残ったら、オバマ大将の号令一下、エコカーや小型車で死にものぐるいで追っかけてくるはず。 去年のこのブログの環境の稿にも書いたけど、例えば、燃料電池車 に直接搭載できる水素生成装置というものはNASAが開発したもので、いまの時点でアメリカにしかない技術である。 デンキもクルマもトランジスタもTVもレーゾーコも、そしてコンピューターもすべてアメリカの発明品でっせ。いつも真似ていた日本もここで独自のモンを創らなアカン。それには鎖国政策をやめるこっちゃ。また一揆にならんうちに、われわれ貧民を上手に使って、民主主義国家に変身するこっちゃ。 少しまじめにつけ加えるならば、新しいものをバンバン造ったアメリカ文明がいつまでもすばらしいと言っているのではなく、いまやその過大な弊害が噴出して手が付けられなくなったのが、いまのこのお化け国家である。かたや新しさのイメージという意味ではもはや日本はアメリカを抜いている。ただヨーロッパも含めての旧世界では、人間の関係というものの風通しが悪いのか、飛び抜けて新しく大きなものを発明できない体質のようなものがある。前出の南部氏を含めて、ただ風通しがいい環境を求めてこの国にやってくる。「精神的鎖国」とはしごく個人的な環境のことからはじまっているのかもしれない。 世界経済恐慌がはじまったいまからこそが新しい技術競争が全世界で苛烈になる。世界で唯一余裕の残っている日本の企業は、いまこそ人員を整理したりする時期ではまったくなく、やるべきことは山のようにあるはず。経営者はいったいなにを考えているんでしょう。 この恐慌のはじまり、リーマン破綻の直後の10月1日に、京セラとKDDIの創業者、稲森和夫氏の講演があった。NYCにこれほどの同国人がいたのかと思われるほどの日本人が集まり、アメリカ人数百人も英語の同時通訳で拝聴した。氏は臨済宗の得度を受け、托鉢・辻説法もされているという。かねてから参禅させていただいている若き臨済の師とともに行ったのだが、仏道の六波羅蜜の教えをベースに、人は何のために生きるのか、というお話であった。 印象的だったのは、自分の事業が何度も苦境に陥った時の話になると、とにかく「自分の会社の従業員の生活をどうするか、なんとしてもかれらの家族とともにその生活を護らねば、救わなければならない」ということを幾度も幾度もくり返されていたことである。それがお釈迦様の言われた「精進」の教えに通じることを発見したと言われている。「一生懸命働くこと」が実はこころを磨き、魂を磨くもっともいい方法なのだと。 氏の話を聞いて、このような「目覚めた人格」の経営者がいる日本の社会は大丈夫だ、と強い安心感があり、ウキウキとした気分で帰ったことを覚えている。 が、年末からの派遣切り騒ぎを見るにつけ、実際に日本の他の経営者はまったくそうではない人がほとんどだったようだ。株主や他の重役、政府などの圧力を押さえて、企業の底辺を支える派遣を含めた従業員がなによりも大事だ、かれらの生活を死にものぐるいで守る、と言える経営者は稲森氏以外に皆無なのだろうか。民主主義の原点を理解し、政治を確実にその方向に進める目覚めた政治家もいないのだろうか。他の先進国家とくらべてもあまりにお粗末な人材しかいないことに本当に涙が出る。 日本の大多数の「政夢(まさゆめ)」を見ることができない政治芸者、眠ってしまった経営者たちに言いたい。 夢を見ることが不可能ならば、目覚めよ。 ここに大悟に至る仏陀の視界(ヴィジョン)を明解に解き明かした講話がある。 先日の「金魚のフン」にも登場した、『般若心経 The Heart Sutra— バグワン・シュリ・ラジネーシ、色即是空を語る』(メルクマール社・刊)から、かれの講話の一部を抜粋する。眠りながら夢見ることすらをも完全に否定している。第8話「五つの知性」から。 *「ブッダ(buddha)」というまさにその言葉からして「目覚めた知性」を意味する。般若心経のなかで使われている言葉の四分の一は「知性」を意味する。 ブッダ(buddha)=目覚めた、ボーディー、ブッドゥ(budh)という語源にはたくさんの次元がある。 第一の次元は、目を覚ますこと 自分自身を起こすこと そしてほかの人たちの目を覚ますこと 目覚めているということ— その意味では、悟りに至るものが夢から覚めるように覚めるところの 迷いのまどろみの中に眠りこけていることとは対照をなしている それが知性=ブッドゥの第一の意味なのだ あなたの中に目覚めをつくり出すこと— 普通、人間は眠りこけている 自分が目覚めていると思っている間でさえ あなたは目覚めてなんかいない 道を歩いている— 完全に目覚めてだ あなたの心の中ではね だが仏陀の視界(ヴィジョン)から見たら あなたは眠りこけている なぜならば千と一つの夢や思考が あなたの内側で騒ぎ立てているからだ あなたの内なる光はとても曇っている それは一種の眠りだ そうあなたの目は開いている それは誰が見てもわかる けれども夢の中で、眠りの中で 目を開いたまま歩くことのできる人たちもいる そして仏陀は言う あなたは眠りの中で歩いているのだ、と 目を開いたまま— けれどもあなたの内なる目は開いていない あなたはまだ自分が誰かを知らない あなたはまだ自分自身のリアリティーをのぞき込んでいない あなたは目覚めていないのだ 思考で一杯の心(マインド)は目覚めてなんかいない 目覚められるはずがない ただ思考や考えることを落とした心(マインド) まわりを取り囲む雲を蹴散らし 太陽が明るく輝き まったく雲ひとつない心(マインド)こそ 「知性」を持った、目覚めた心(マインド)なのだ 知性とは〈現在〉の中にいる能力にほかならない 過去や未来の中にいればいるほど あなたはそれだけ「知性的」じゃない 知性とは "いまここ" にいる 他のどこでもない "この瞬間"にいる能力のことなのだ そうしたとき、あなたは目覚めている たとえば、あなたが家のなかに坐っていて その家が突然火事になる あなたの命が危ない そうしたら、一瞬の間 あなたは目覚めているだろう その瞬間において あなたはごたごたといろいろな考えを抱いたりはすまい その瞬間において あなたは自分の過去のすべてを忘れる その瞬間においてあなたは 「自分は30年前にひとりの女を愛した ああ、あれは最高だったなあ!」 などという心理的記憶にかきまわされはすまい そんな思いにふける余裕はないだろう あるいはまた ついこの間中華料理のレストランに行ってきたところで いまだにその味が残っており できたての春巻きのかぐわしい香りが鼻についている— いいや 自分の家が火事のとき あなたはこんなことを考えるゆとりなんかない 突然、あなたは”この瞬間”に馳せ参ずるだろう! 家が火事になって、自分の命が危ない あなたは未来のことなど夢に見はすまい 明日何をしようか— 明日などもう問題じゃない 昨日などもう問題じゃない 今日でさえもう問題じゃない! ただこの瞬間だけ このわずか一瞬— それが〈ブッドゥ〉、知性の第一の意味だ そして、そうしたとき そこには大いなる洞察の数々がある 本当に目覚めることを求める 本当にひとりのブッダであることを求める人間は 一瞬一瞬を普通ならほんの稀に 何か危険にあったときにしか生きないほど強烈に 生きなければならない ブッダ(buddha)=目覚めた、ボーディー、ブッドゥ(budh)という語源の第一の意味は、このように「眠り」の反対の意味だという。 そしてバグワンは、第二番目の意味は、認識する、つまり、気づく、通じる、注目する、心にとめる、というようなことだという。 第三番目は仏陀は〈在るそのものを知る、理解する〉ということである。この項目にも長い講話があって、やっと第四番目の意味=悟る、ということを理解する。 その「悟る」ということが決して「知識」ではない、知性の機能だという。究極の機能だという。 そのあと「ブッドゥ」の意味の最後、五番目は 「推し量る」ということだ ひとつの深みがあなたの中にある 底なしの深み— それは測られなければならない あるいは五番目の意味はこうも言える 「貫く」こと あらゆる邪魔者を落として あなたの実存のまさに核心 そのハートを貫くこと この経典が ザ・ハート・スートラ The Heart Sutra 般若波羅蜜多心経 Prajna-paramita-hrdayam Sutra と 呼ばれているのはそのためだ 貫くこと— あなたの内なるブッダにごあいさつします バグワン・シュリ・ラジネーシ 訳・スワミ・プレム・プラブッダ
by nyckingyo2
| 2015-01-02 07:50
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