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呪術的思考は、それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、したがって、科学という別の体系とは独立している。この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、それによって呪術は科学の隠喩的表現 (métaphore メタファー) というべきものになる。 それゆえ、呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として併置する方がよいだろう。それらは理論的にも実際的にも、成績については同等でない。しかしながら両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない。知的操作の性質自体が異なるのではなくて、それが適用される現象のタイプに応じて変わるのである。 (レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫・訳 p-18) MoMAでのロバート・ラウシェンバーグの大回顧展 "Among Friends”は、2017年9月に終了したが、かれが64年に日本で制作した《ゴールド・スタンダード Gold Standard》を中心に、ラウシェンバーグの無意識が表出させた当時の日米関係を分析する。 ラウシェンバーグは1964年にマース・カニングハム・ダンスカンパニーの初の世界公演の美術監督として日本を訪れた。11月28日の旧草月会館のイヴェントでは、饒舌の評論家・東野芳明が問うた「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」に答えるかわりに、舞台の上で《ゴールド・スタンダード》を制作した。その公開質問会自体をハプニング作品として再構成した、と当時の記録にある。まさにアメリカ的『野生の思考人』=ラウシェンバーグの見た60年代の、すでにかなりが植民地化されつつあった日本と、トランプの来日した21世紀の現代の状況を比較したい。 続編(2)後半で、21世紀を預言したと言われる、レヴィ=ストロース『野生の思考』と、そのなかでのブリコラージュ(器用仕事/日曜大工風あり合わせ素材)という方法論に直結した、ラウシェンバーグの『野生の思考』を絡める。 レヴィ=ストロースは後年、現代日本を観て「日本人は『野生の思考』をその文化に遺し、自然を人間化することを実践している気宇な国だ」と絶賛した。 日本はアメリカの植民地になってしまったという60年代のラウシェンバーグの呪術的預言によらなくても、だれもがその時点でその東の大国の統轄的な植民地となることを感じていた。以来半世紀、その傾向はアベの長期政権でますます深くなっていると思うが、ここ日本には、自然を人間化してしまう『気宇なる日本文化』があるという文化人類学を考察に含めると、日本は決して完全にアメリカの植民地にはならない。植民地になることはできない、と断言できる。その実証的な言葉を『野生の思考』を書いたレヴィ=ストロースから得たので、続編(2)に書く。 しかしながら、村上春樹のいう『古代の祭司=トランプ』の来訪で、60年代にラウシェンバーグが直感した植民地システムは、さらに強引な宗主国との緊密さを強いられ完成してしまったようにみえる。 東アジアでの戦闘を統轄できる『戦争のための植民地』に成り果てるまで、もうあと一歩。アベ長期システムの腐敗は最後の仕上げ(憲法改変)に掛かったと思われる。列島国の再独立にはまったく無能の犬宰相のもとに5年間も停滞集結しつづけ、国民の大多数は与えられた餌=遺伝子組み換えコーンをくり返し反芻し、飲み下すしかない。 植民地国家の犬宰相(カラ愛想だけのふてぶてしいポチとも呼ばれている)以下『姿の見えないご主人様の声だけに服従する犬たち』であふれている。すでに落ち目になりはじめた宗主国の新しい宗主の声は、それでも威厳だけは、根深い利権の絡んだ古代ローマの祭司の声そのものであり、コロシアム(ゴルフ場)の隅々まで響きわたる。日本の犬宰相=ニッパーはその声を至近距離に聞いて内心畏怖し、ゴルフボールとともに再度バンカーに転がり落ちる。 実体は「オレは呪術アーティストだ!めんどくせえ討論などやってられっか!」てなところだと推測する。ラウシェンバーグは質問を一切無視し、言語によるコミュニケーションを遮断する(当然)。 マラソン銅メダルの円谷選手も『父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい』と、旧日本軍の風習を遺す自衛隊員(兵士)として自決された。勅使河原蒼風が提供した金屏風と、東京の街で見つけたガラクタPOP廃材たちを組み合わせて『伝統と最新技術が共存する』という当時の日本へのステロタイプ的意識のままに表現した、と記録されている。 作品の手前に、金屏風につながれ鎮座し、哀しそうに首をうな垂れ、ご主人の声を聴き込んでいるヒズ・マスターズ・ヴォイスの犬=ニッパーは、さらに多層的なコミュニケーションの不在を示している。 彼が耳をそばだてているはずの蓄音器の大きなスピーカーは、もうどこにも見当たらない。HMVの犬はコカコーラの瓶と同じく、当時世界中で堰き切ってはじまりつつあった、米ポップ・カルチャーによるグローバリズムのシンボルだ。かれニッパーの存在は、アメリカよりも当時の日本をより端的に象徴しているといえる。 犬のご主人(アメリカ=第二次大戦の勝者)は犬に向かって「占領軍などもういないよ、消えたよ、いったいだれのことをいってるんだ?」 その主人国は、自らをまるで大戦で彼岸に消えた戦没『不在者』のように演出しつづけた。が、現実には太平洋を越えた彼方から日本国を厳しく統治する『主人(マスター)』でありつづけ、極端な物質文明の申し子として、日本の精神文化のかたちまでをも大きく変えはじめていた。 深層心理学の一派で『犬』は自分自身=SELFの象徴だが、すでに亡くなった主人の声を『レコード盤』で聴きつづけ、ノスタルジアに浸りながらの忠犬というシンボル。シブヤの駅前で毎日、既に亡き主人を待っていたというハチ公の姿とも二重映しになる。 カラーテレビが世界を席巻しはじめ、軽薄なTVグローバリズムがはじまった直後の、60年代初頭の物語。アメリカの反共狂乱政策は果てしなく拡大し、ベトナム戦争真っ盛り。世界は異常ともいえる興奮時代へと突入。 このあたりから歴代の日本首相(領主)の仕事といえば、半世紀後の現代に至るまで、アメリカの忠犬ハチ公、あるいはHMVのニッパーをつづけていくしかない。歴代領主は、自分はそのアメリカにいかに抵抗しているのか、というポーズのみが人気取りになる。日本国民も選挙の度に(見えない)ご主人アメリカの仕組んだ煽動にふり回されていく。60年安保の際には、日本の若者たちの抵抗の姿は圧倒的で、当時の巨大番犬であったアベの祖父を総理の座から引きずり降ろした。しかしながら、そのあと宗主国の『声』のみを過剰に聴きとる能力に長けた、歴代の官僚の『スーパー耳たち』によって、日本列島植民地化政策は順行しつづけている。 2017年衆院選では、ニッパー領主総理の号令のもと、国家の隅々まで一億匹の白痴的運命論を共有する忠犬ハチ公とニッパーが溢れ、全員が東を向いてシッポを振っている。かってその東国の命令で造った装置が津波で壊れ、大量の放射性物質を垂れ流している方向だ。もちろん異を唱える輩の相当数いるのだが、かれらの生きるすべも、すべてその東国の意向次第となってしまったゆえに諦観し、投票所にも足を運ばなくなった犬、犬、犬たちの大軍。若者犬の大半は、自らアメリカののらくろ二等兵を志願するように大日本ニッパー党に投票する。 これ以上の21世紀・現状批判は、60年代の犬物語のあとに続ける。 ラウシェンバーグのHMV犬は、当時まだ日本の重要な交通手段だった自転車のサドルの上に《針金》でしばりつけられ、その上に鎮座している。さらにそのサドルが乗っかっている、宗主国からの請求書や領収書のような古いノートが詰まった金網性の籠は、もともと何に使われていたのか、熟考したが不明? 愚考? このとき作品に使われたガラクタ廃材たちが表現している「下請け工場としての植民地日本」は、21世紀を待たずにいわゆる発展途上国に代わって消えたということだが、半世紀という時間の、重くゆっくりとした流れを考慮しても、私にはまったくそうは見えない。逆にこれら敗戦後の廃材たちは、日本のひとびとの深層に喰い込み、自らが産み出したその廃材によって、全員が宗主国の支配をより深く感じつづけている。日本文化=植民地という名だけの過疎地、あるいは廃村が残った。世界はグローバリズムという名の、一局支配をめざす国たちによる、強奪と戦争がつづいている。 一匹のサラリーマン犬は考える。ご主人のご主人のご主人である=巨大帝国の完璧な世界制覇のため、かれらが今後はじめる戦争に(激しく)参加しなくてはならない。その帝国の統帥権を持つ者の命であらば、ひとむかしまえのご先祖さまが特攻機に乗って自らの命を絶たれたのと同じように。 21世紀のMoMAでは、名前からして超古風の勅使河原蒼風が半世紀前に提供したという金屏風のキンキラ光は半減し、ふしぎな『シブイ』色調を放っている。ゴールドランドの植民地としての深化。マルコ・ポーロもびっくりの宗主国によるジパング大略奪の新自由主義のはじまりはじまりぃ! さてそのゴールドランドがかって統治していた満州/朝鮮半島/台湾/東アジアの民は、この金屏風に写った宗主の光をどのように感じているのでしょうかねぇ。 しかしながら、そこでラウシェンバーグが動いた軌跡は、克明に遺されている。ラウシェンバーグの作品には、かれが動いた形跡が如実にヴィジュアライズされている。ラウシェンバーグが動けば、激しくぶち塗ったペイントの飛沫が、ひたすた戦争を続ける超大国家への激しい批判となる。ひとむかし前の先輩=ジャクソン・ポロックの垂らし込み=dripping とは意識の矛先がちとちがう。ラウシェンバーグは、政治が芸術を論じるのではなく、芸術が政治を論じるべきだという。この言葉は、ラウシェンバークを『視覚』することによってのみ理解できる。野生的で粗削りな《反体制/反政治》が新しいアート・ジャンルとして、この荒々しい国に現出した。 白熱電灯に照らされ、逆さまに固定された工事標識にはネクタイが結ばれ、垂れている。ときまさに東京オリンピックの年。閉会式が10月24日だから、その1カ月後に制作されたこの3Dミクスドメディア、当時はボルドーワインとおなじ意味のアッサンブラージュ(組み合わせ)と呼ばれた。 異様な突貫工事で様変わりしたキンキラ光の東京を見つめて、ペシミスティックなアメリカ人ラウシェンバーグの視覚は、急激な経済変動に対応できなくなり、ネクタイで首を吊る多数の日本人経営者を鋭く見つめている。 日本初の地球的宴(グローバル大宴會)はそそくさと終った。 作品の左端に飛び出して浮いているのは、立方体に組み直されたSoni-Tape の段ボール箱。ラウシェンバーグが日本で入った檜のお風呂のレプリカと思われる。ご丁寧なことに風呂桶の中には、風呂場のタイル壁と電気ヒーターのパーツのようなものが突っ込まれている。そして風呂桶全体は細い透明プラスチックの棒で、震えながら金屏風空間の宙空に浮かんでいる。震える風呂桶… 2018年という時空から見渡すと、ダンボールというペラペラの素材とブルーのタイルが、崩れ去ったフクシマの原子炉建屋のイメージに重複する。いまや廃炉もままならぬ風呂桶を横目で見ながら再稼動は続く。ハテ、原子力でお湯を沸かせましょう! お湯の中にもハナ(放.)が咲くよチョイナチョイナ! 『明るい都市の建設は 先づ環境の衛生から』たちばなや/いそごはま。戦後の残混乱をメカニカルに整頓しようとする当時の標語『環境衛生』は、半世紀後の現代日本における国民の異常ともいえる潔癖性に収斂していき、具現しつづける。むろん『潔癖』ということへの一見美しいカルマは、その清潔の周回という無限地獄から、実に異様なカルマをも内包している。 半世紀のときを経て、錆び付き、腐りながらも『存在する』このホーロー看板を、ほんとうに愛おしく思う。あるいは『環境衛生』ということばに幼児期の記憶が同調し震える… アルファベットのまったく入らない日本語の、時代を越えた古風。 かたやアルファベットと数字だけの意味を介さぬ表記が氾濫するさまは、列島船の言葉の羅針盤を混乱させていく。 ラウシェンバーグがもし生きていて、分別ゴミの収集所までが整頓され切った2017年の東京に来たら、作品のためのあり合わせ/ガラクタ素材の欠如に怒るだろう。「知性を感じるゴミが消えてしまった」と。いまのPika Pika Tokyo のゴミにはアッサンブラージュ(組み合わせ)を作ることができるが、そこからブリコラージュ(あり合わせ)を感じる余裕は消え去った。 もう一度、ラウシェンバーグが動けば、アメリカの覇権の体現ではなく、そのヘゲモニーへの批判を体現する。政治が芸術を論じるのではなく芸術が政治を論じるべきだといっている。 そこに<ありあわせた>石油缶の蓋や、泥まみれのドタ靴が、いつのまにか反国家を謳う呪術や神話に変化している。 いままで、この作品を各部品ごとに観察してきたが、すべての部品が<あり合わせ>(ブリコラージュ)という状態で集まっている。蒼風が提供した金屏風の6面のキャンバス全体が、日本的ディヴィジョニズムを連想させる。 色とりどりの刺身が盛りつけられた大皿。山肌に沿って無数の段々畑の連なる里山。あるいは消えんとしている築地市場。甍の波と鯉のぼりの波。自然を、生活のなかや食卓のなかにまで組み込もうとする日本民族。 ラウシェンバーグのもうひとつの眼は、アメリカが決して植民地化できない『日本文化』を観ている。 言語劣等感からの植民地化 今年で滞日27年になるという詩人=アーサー・ビナード氏の直感は「日本語は消滅に向かっている」と感じている。 『英語優位の愚民政策 知らずにだまされ チチンプイプイ』 「米国の先住民の言葉が絶滅に向かったのは、貨幣から時間の表記、契約まで何もかも英語を強いられたから。中身や衝撃度がわかっていないのにTPPという言葉だけが独り歩きし、わかった気分になっているうちに、チチンプイプイとだまされる」。そして文科省の小学校・英語教育。「英語を学ぶのはいい。でも僕が見るに、日本語は英語より劣っているという印象を子供たちに無意識に植えつけている気がする。文科省の英語教育は中高を見ればわかる通り悲惨だから、二流の英語人が育っていく。日本語力が弱まり、きちっとした言葉を持たない民があふれる。そんな愚民政策に対する議論がもっとあっていいのに、本当に少ない。このままでは『飛んで火に入る日本語の虫』だよ」 「言語の延命には二つの条件がある。民族のアイデンティティー、平たく言えば自国に根づく心と、その言語による経済活動です。でも日本ではいずれも弱まっており、日本語は消滅に向かっている」と詩人ビナード氏はみる。 40数年まえ、20代の私がはじめてインドに降り立ったとき、英語という言語に同化させつづけられた故に、無惨に引き裂かれた植民地=インドというものを見た。日本における英語教育の不可能性は、さらに複雑な状況を醸し出しつづけていて、単純に比較などできない。ただ現代日本の領主が唱えている極右路線、それを取りまくネトウヨと呼ばれる人種の『愛国心』なるものを注意深く見つめると、言語学的に二重の『劣等意識』の殻に閉じ込められているのではないか。それは70数年まえに大日本帝国が世界に粋っていた統帥権の化け物などでは決してなく、アメリカという宗主国に深い媚を売りながらの、歪みきった『愛国心』なのではないだろうか。 ラウシェンバーグが来日したとき、言語によるコミュニケーションを一切遮断したのは、そのときの日本民族の言葉に、英語のかた言語彙が率先して混ざりはじめ、英語経済の優位性にも気づきはじめた時期だったのではないか。真の植民地化とは、民族の言葉が宗主国の言葉に、個々の精神のなかで負けた瞬間のことである。このことは言葉としての優劣や、その国の文化の優劣などとは関係を持たずに、実に機敏なカルマで進行する。 ビナード氏がいうように、それまでの日本での英語教育が悲惨というほどにひどく、国民の日本語に対するプライドが極端に強かったがゆえに、いままで幸運にも真の植民地化が遅延していた、ということができる。 さて、ラウシェンバーグのアメリカ風『野生の思考』は、世界の芸術の都をとうとうパリからニューヨークに移動させることとなる。 そのエポックはまさにヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリを受賞したこの1964年にはじまる。ヴェネツィアといえば、東地中海に一大海上植民地帝国を建設した都市国家である。その年のヴェネツィアでのアートの大変革のすぐあとに、ラウシェンバーグは植民地化の進む東京に来てこの作品を仕上げたわけだ。その後も同朋ジャスパー・ジョーンズ、そして後輩にあたるアンディ・ウォーホルとともに、モダンアート界のニューヨーク遷都を実行した。 レヴィ=ストロース『野生の思考』 このヴェネツィアでのモダンアート革命とほぼときを同じくして、旧大陸では文化人類学という新しい学問のジャンルで、意識変革が起こっていた。もっともレヴィ=ストロースのこの発想は、世界の先住民/未開民族の価値を先進国に翻訳したものということになる。新石器時代の人間は、長い科学的伝統の継承者に他ならない。『未開』と呼ばれてきた世界各地の先住民の考え方は、かってわれわれが通過した新石器時代の『野生の思考』そのものであり、まさにその頃の呪術や神話から、現代の最先端科学技術が生まれた。絵画の印象派が日本の浮世絵やアフリカン・アートに取り憑かれたように、最先端科学のなかに、すでに呪術と神話が内包されている必然を説いた。 1962年にフランスの人類学者・クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』"La Pensée sauvage"が出版された。この書は19世紀に20世紀を預言したマルクス『資本論』に対峙して、20世紀に書かれて、21世紀を預言しているといわれている。 表紙には「思考(pensée)」と「パンジー(pensée)」を掛けて野生種パンジーである三色スミレが描かれている。 野生の思考とは、未開人がありあわせの素材を用いてものを創造する=ブリコラージュ(日曜大工風)の材料で思考すること。その思考様式は呪術や神話というかたちで文化のシンボルとなりつづける。科学的思考が用いるものが「概念」であるのに対して、野生の思考が用いるものは「記号」であるという。レヴィ=ストロースは、ブリコラージュ(ありあわせの日曜大工風)を、未開社会の特徴的な表現方法だと考えた。 もう一度、まったく同時期の新大陸に戻る。旧ヨーロッパ種ではあるが、先住民の意識を色濃く遺したラウシェンバーグは、この『ブリコラージュ』を新しい世界批判の神話あるいは呪術としてはじめていた。現代北アメリカ版『野生の思考』として、レヴィ=ストロースに完璧に呼応している。そのありあわせのガラクタは、魂の先住民ラウシェンバーグを「記号」の方向に向かわせる。かれの手は突然神性を帯び、そこにあるブリコラージュ(日曜大工風)素材で荒っぽく造形されたトーテムポールが、築かれる。築かれたとたん、その呪術と神話の山は見事に崩壊してしまうのだが、SOHOの呪術の女王=Ms.ソナベンドが「神話は常に崩壊しつづける」というレヴィ=ストロースのことばをどこかで重ねると、画商たちはそのメタファーを逆解析し、まるでそこに神話が遺っているかのように狂って買いあさった。
『もちあわせ』:すなわちそのときそのとき、限られた道具と材料の集合で、なんとかするというのが、ゲームの規則である。しかももちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら『もちあわせ』の内容構成は目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。(レヴィ=ストロース『野生の思考』) 科学的思考とは『概念』を組み立てることからはじめる、概念とはある特定の用途にぴったりと合うように作り出された『知的道具』を指す。最先端技術エンジニアの作り出す概念は、正確で無駄がない。 対する先住民のブリコラージュは、記号を用いる。記号はありあわせの道具や材料を指し、最初の意図とぴったり合うことはない。そのためたえず揺れやズレを持っている。先住民たち作品はのここで決して完成するということはない。揺らぎやズレを孕んでいるため、次のものを作り出そうとする。それもまだ完成でないので、また作る。こうしてどんどん変型を重ね、豊かな文化の世界が形成されることになる。 アメリカの先住民族たちは、ヨーロッパからの移民によって自分たちの土地を『植民地』にされるどころか、完全に占領され、かれらの帝国を創られてしまった。かって神話と呪術に埋めつくされていた土地はコカコーラとマクドナルドの王国となった。ラウシェンバーグの後継者=ウォーホルなどは、それらのアメリカン・ポップ文化のシンボルをそのまま記号として用い、新しい『野生の思考』時代を創り出した。 しかしそのまた次の世代は、これらを先進科学技術のシンボルである『概念』という哲学用語に置き換え『コンセプチュアル・アート』なるものが全盛となる。これらのもののなかにも、概念ではなく、記号としてラウシェンバーグのブリコラージュに継続し、神話や呪術を表現しようとしたものも多い。 たまたま『もちあわせた』ものといっても、それらはその時空の『必然』に基づいていて、そのすべてが『自然』なのだ。自然を自然のままに呪術として使うと、そこに神話が生まれる。そこにいる人間がその神話を信じることももちろん『自然』に構造されたことである。自然と敵対する発想の『科学』のなかでの『もちあわせ』は、ものとして完璧に近づくものの、そのことと比例してその神話性は軽く薄くなる。神話性が消えていけば、そのものは『自然』とは遠のいていく。最先端科学でできたものたちは、大洋に流れ行くプラスティックのゴミの大軍となり、アホウドリたちの胃を悩ますことになる。 レヴィ=ストロースはアメリカの人類学者フランツ・ボーアズのことばを反復する:『神話的世界はつくられるやいなや、破壊されねばならず、その破片から新しい世界が生まれるかのようだ。神話は別のところで使われたできごとの破片を拾ってきて、ブリコラージュしてつくられるのだ』 くり返すが、ラウシェンバーグのつくった神話/呪術の世界も『つくられるやいなや、破壊されねばならず、その破片から新しい世界が生まれる』 かれによって、ニューヨーク遷都を果たしたモダンアートも、その後世界をめまぐるしく交差し、多様化という無限の可能性を感じながら拡大/拡散をつづけているが、基本的にはレヴィ=ストロースのいう神話と呪術をベースにした『野生の思考』に同調して動きはじめた。 まわりのHMV犬もアンゴラ山羊も身動きできなくなる。 コンクリート・ジャングルの呪術師。 ラウシェンバーグの代表作 Monogram, 1955–59 またかなりの饒舌で長引きました。以下、後半第2編につづけます。いよいよレヴィストロースが、日本文化と日本人をたたえ「日本には、自然を人間化してしまう『気宇なる日本文化』がある」という項に入ります。この構造主義というものを考えに含めると、日本は<決して>完全にアメリカの植民地にはならない、植民地になることなどできない、という結論に。 かたや世界の茶の間で『チャブ台返し』するトランプと、その犬アベ。4年前の辺見庸の言葉『ニッポンのイスラエル化』についても論じます。乞うご期待! グローバリズム時代の植民地考(2)につづく。
by nyckingyo2
| 2018-01-03 01:11
| 悪魔の国からオニの国のあなたへ
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