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メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対してはひと一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里(約39キロ)はなれたこのシラクスの市にやってきた。(『走れメロス』太宰治 ポプラ社・日本の名作文庫・p-4) 2018年春浅い3月、親米ウヨクに牛耳られた列島に、5年間まったく来なかった春というものが突然やって来た。それまで邪知暴虐の王アへⅢ世によって続けられた組織の腐敗が、一気に露呈した。腐りきった大量の行政ゴミの、溢れかえる膿が溢れ、その王によってなされた大逆が暴露されるごとに、国民の全員が辟易とした。王自身がその膿に言及するほどになり、王に導かれて腐りきってしまった列島そのものも、世界から『民主国家』という資格さえをも剥奪されてしまった。『反民主主義国家』あるいは『縁故主義国家』という深い烙印を押された。世界が現代日本をそのように見ていることに気づいている国民は少ない。 きっかけは、それまで邪知暴虐の王にやられっぱなしだった朝日というポジティヴな名の新聞社が、怒り心頭立ち上がったことによる。現実のアへⅢ世は、財務省の公文書改竄で、野党と大多数の国民に締め上げられ、土俵際でギリギリ踵を残したまま、この期に及んでも逃げ切ろうとしている。水入りという儀式のかわりに、4月には一方的思い込みの朋友のいるアメリカに逃げ出したが、アへは朝鮮半島融和の大局がまったく読めない戦闘的態度を崩さず、トランプはほとんど無視。国内でしでかした超不道徳連続反則技に、国民だけでなく世界も怒り心頭に達している。防衛省からは自衛隊イラク日報びっくり箱までが飛び出した。すべてがウソ。王が言ったウソを、ウソで固めるために改ざんした。古代から絶対信用の証しだった公文書とハンコ文明が、頂点から大音響とともに崩れ落ちる。 もはや悪王になすすべは何もないはずだが、そこは長州戦争大狸家の濃厚な血を引いて底ぬけにしぶとい。これだけがかれの取り柄かもしれぬ。 思えば明治維新で権力の中枢に躍り出た長州は、明治の世に松蔭の生徒たちが消え、最後にか細い接点のあった山縣有朋が残ったころから俄然雲行きが怪しくなり、統帥権という世にも奇怪な怪物を産み出し、かってのこの藩はこの奇形戦争児の生母となりはてた。 司馬遼太郎は『この国のかたち』という夢のなかで、色のない浅茅ケ原に迷い込み、そこに巨大な青みどろの不定形なモノが横たわっているのを見た。その粘液質の化け物に名前を訊くと、驚いたことにその異胎は声を発した。「日本の近代だ」というのである。 明治維新は国民国家を成立させ、日本を植民地化の危険から救い出すというただひとつの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命だった。現在も、それは革命などではなく、権力が移行しただけという説が横行しているが、封建制が一挙に否定されたために『階級』として得をしたものはなく、社会全体が手傷を負いつつ成立した。この点ブルジョアのためのフランス革命や農奴のためのロシア革命とは同日に論じられない。 日露戦争でかろうじて勝った日本は、ロシアの報復を想定して大規模な海軍を造るにいたる。この胎盤に似た膚質のモノは、30分ほども沈黙したあと「あの頃は、深刻な事情があった」といった。だれがそんなことを考えた、と問うと「参謀本部だ」と恐ろしい声を出した。(ひょっとすると、このモノは、参謀本部そのものではあるまいか。 日露戦争が終わってから、参謀本部は、内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関となり『統帥権』という超憲法的な思想をもつに至る。 司馬は『雑貨屋の帝国主義』と揶揄しながら、この統帥権の化け物を罵倒する。日中戦争の始まるまえには、この化け物はすでに腐りきっており、その権力の膨張し腐敗していくさまだけをみれば、21世紀の現代日本の政治腐敗臭と実によく似ている。日中戦争のとき、参謀本部の中枢を牛耳って満州国のアヘン利権を一手にしていたのがアへⅢ世の祖父、キシ団長Ⅰ世だった。キシは東条英機とともにこの『統帥権怪物』を実に巧妙に操り、日本を壮絶な大敗戦に導く。不思議なことにこの戦時のキシに取り憑いた統帥権怪物は、第二次アへⅢ世の治政に、ほとんど80年のときを得て、まるで霊界からもどって来たようにアへⅢ世の頭角から内腑へと復活し、憑いている。 「王様は、人を殺します」 「なぜ殺すのだ」 「悪心をいだいている、というのですが、だれもそんな悪心を持ってはおりませぬ」 「たくさんの人を殺したのか」 「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それからご自身のお世継ぎを。それから妹さまを。それから妹さまのお子さまを。それから皇后さまを。それから賢臣のアキレスさまを」 「おどろいた。国王は乱心か」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信じることができぬというのです。きょうは六人殺されました」 聞いてメロスは激怒した。「あきれた王だ。生かしておけぬ」(『走れメロス』p-5) キシ断腸Ⅰ世は、戦後の後半の人生でA級戦犯被疑者として3年半拘留。GHQに眼をかけられ不起訴のまま無罪放免。旧敵国に助けられて忠実な親米派に変身する。十数年後に首相になり、現代にまでつづく『対米従属社会』の基礎を列島に築き上げた。60年安保闘争のあと退陣するも、その後の渾名もまさに「昭和の妖怪」と呼ばれた。 孫である邪知暴虐の王=アへⅢ世は、その先祖伝来の右翼志向がさらに増幅し、狂ったように戦前の軍国主義回帰を夢想した。戦時のキシ段長とちがうことは、宗主国アメリカの言いなりに垂れ流された軍国主義である。無為無策のまま、宗主国の意向よりも、更に深い植民地化を具現している。 そう、アへⅢ世が夢想した「アメリカの植民地になりたい」という極端に屈折した夢を分析すれば、キシ弾調が時代によって夢想した対局するふたつの夢に、鈍く分裂している。 すなわち、キシが満州での利権から大東和共栄圏を打ち立てる夢と、後半の人生では戦後の日米安保を媒体にしたアメリカ追従。キシの人生のふたつの時代が完全に分裂し、その兼ね合いの意味は矛盾した異様な夢として膨らむ。キシの愛孫であったアへⅢ世は、それがどのように異質の素材の分裂であるのか、まったく気づかないまま成長した。かくて平成の末期に、分裂しきったアへの頭が生み出した数々の夢想のなかから、列島はアメリカが想定した数倍の意味での『完璧な植民地』として完成しつつある。 もう一度いう。愚劣で時代錯誤、戦前/戦中のウヨク統帥権思考と無意識からの対米従属思考という二つの眼が、分裂しながら国家を恐怖のどん底に巻き込む大型ハリケーンが、5年間も吹きつづけたような狂気である。 司馬:ありようは、ただ一つのことを言おうとしている。昭和ヒトケタから同20年の敗戦までの十数年は、ながい日本史の中でもとくに非連続の時代だったということである。たとえば戦後"社会科学"的な用語として使われる『天皇制』などというえぐいことばも、多分にこの非連続的な時代がイメージの核になっている。 —あんな時代は日本ではない。と理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。さきに"異胎の時代"ということばをつかった。その20年をのけて、たとえば兼好法師や宗祇の生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続性がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期とこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる。つなぐとは単純接着という意味でもあり、また電流が通じうるという意味でもある。(司馬遼太郎『この国のかたち(一)』p-36) その列島の文化に非連続な"異胎"を、21世紀の平成末期にさらに混乱した状況で増幅させる、"異胎が異胎を産む時代"が、第二次アへⅢ世の治政ということになる。—こんな時代は日本ではない。 最近、朝鮮半島統一への世界史的な大きな動きがはじまったことに対しても、祖父の戦中の偏見のままを表現し、無為無策を通り越した無視という態度に徹する。世界中から相手にされないゆえの無視。アへの妄想無意識のなかでは、朝鮮半島は戦前のキシの認識とおなじように、自分たちの属領でしかない。 まさに第二次大戦時に日本軍の統帥権首脳部が考えていたことと、寸分たがわぬ無意識の持ち主といえる。そのくせ自分が住む列島を、自分でアメリカの属国になりはてさせたことに、なんの責任も頓着すらも微塵だに感じていない。 かくも狂った愚鈍性分裂思考が、内閣・官僚そしてそれを取りまくアへ一族に、忖度などという古代中国王朝の語彙で、瞬時に伝播する。マスメディアにも伝播する。もっとも恐ろしいのは、広場にいたメロス共闘の側にもこの痴呆が伝播していくこと。 平成末期版 痴呆夢・メロスの不在 官邸前広場にいるだれかが言った「ところでメロスってだれだっけ? どこに行ったんだっけ?」広場の端にいた男が答えた「いや、さっき走っていった男じゃないか? 王に命を賭けるとか言ってたが、だがいったいどこに、なにしに行ったんだ?」 その時はまだ、広場にいる人びとの多くがおぼえていた。メロスが威勢よく王に啖呵を切り、竹馬の友=セリヌンティウスの命を悪王に預け、愛する妹の婚礼のために三日の猶予をもらい、村までの十里の道を、ひたすらに駆けて行ったこと。だがいまもう一度、そのメロスとはだれか、かれになにをやってほしかったのか、だれもがどんどん思い出せなくなっていく。全員、王だけに嫌悪をむき出しにし、ひたすらに「アへやめろ!」だけをくり返す。そこにはアへⅢ世を肯定する多数の側とおなじ種類の健忘/痴呆がすでに蔓延しはじめていた。一時は一斉に政権を批判していたマスコミも、政権を追いつめるゲームを楽しんでいるだけ、に見えてくる。 スクープを報じた朝日の記者が、実はメロスだったのではないのか。それとも弾劾した野党の国会議員のなかにいたのか、まさか自殺した近畿財務局の職員がメロスなどということはあるまい。望月衣塑子は、前川喜平はどうか? この稿を書きはじめたときは、その英雄を山本太郎に想定し、かれの準主演した映画『バトル・ロアイアル』の物語とともに締めくくるつもりであった。 山本太郎氏は、揺るぎない最有力メロス候補なので、続編以降に登場していただく。 つれあいに訊くと「現代のメロスはもちろん羽生結弦よ!」ときた。確かにこれは説得力がある。結弦はひとりで古き氷上世界に立ちむかい、その時空を新しく甦らせ、二度までも王になった。かれが時間を超越した異次元アリーナにおいて回転すれば、世界に革命が起こる。くり返し舞うたびに世界の人びとから信頼=愛をもらう。 「羽生結弦は、他者には見えない時空で更にもう一度舞い、もう一度回転すれば、他者との無意識の愛の絆を深くする」とつれあいはくり返す。 メロスは走る、結弦君は氷上で跳び、くるくるくるくると舞わる。『舞われ、メロス』 羽生:僕の中で、夢は全てかなうものだとは思っていなくて、きっと夢をかなえるためには、いろんなものを犠牲にしたり、自分がしたいことをできなかったり、したくないことをやらなければいけなかったり、そういった時間があるんだと思います。ただ、それをやり続けているからこそ、夢がかなった時に味わえる達成感ってすごいものだと思う。 「行くぞ、用意はいいか?」 不思議なことに、その平成末期国の国民は、アへ打倒に尽力している者のことを、その稀代の英雄のイメージにぴったりだ、とは決して言わない。英雄にはそぐわない人物ばかりだ、といい、なぜか英雄となるべきメロスその者に協力せず、かれのことを引きずり下ろし、忘れあおうとする。それでも出てこようとする小さなクギのようなメロスがいても、なぜか組織ぐるみの全員で滅多矢鱈にモグラ叩きでつぶす作業に没頭しはじめる。このことはもはや数百年来、この列島のCustumとなっている。 ふと、生涯ここアメリカに来ることにあこがれたが、夭折した坂本龍馬という人物が頭をよぎる。かれに限らず幕末の獅子たちは、当時の中国のように欧米列強の植民地に成り果てぬように奔走した。彼らがいまのアヘⅢ世が実に作為的につくった『アメリカ植民地列島』を見たら、いったいなんといわれるだろう。 司馬が描く竜馬のイメージを反芻したくなり、TVを持たない金魚は、ネットで97年版の『竜馬がゆく』ハイライト版を見る。かれこそは、まちがいなく幕末期の日本が生んだメロスであると確信する。ところがなぜか、司馬遼太郎が小説のなかに発掘されるまで、龍馬のことは維新後の歴史のなかに半分埋もれてしまっていたという。不思議な、英雄不要のCustumがそうさせたとしか思えない。 たった二カ月前にはじまった革命なのに、国民全員が集団的無意識認知症を罹ったように、そのいちばん肝心な部分を忘れてしまった。溢れ出る膿の量に驚き、なんのために王を倒すのかを忘れている。モリかカケかイラク日報かセクハラかと、個別に追求するしかない。お仲間の官僚どもは認知症を装いながら一切を否定する。アへ一族の悪餓鬼じみた醜悪な姿を観せられつづけ、国民も狂う。王やその仲間とおなじように『認知』できなくなる。ところで、認知症とは認知できないデ症ということなのに日本ではなぜ認知症なんてカッコよく呼ぶので症。 やがてメロスが悪王と渡り合ったことを憶えているものも皆無となり、もともととび抜けたヒーローなどこのシマ社会に存在できるものか!と叫びはじめる。 所詮ここは嫉妬の渦まく『仲間うちの列島』なのだ。もちろん悪王たちもおおぜいの『仲間うち』でつるんでいるが、オレたちだってそれぞれムラで、カイシャで、つるんでいないと生きていけない。そのつるんだ先端にはやはり邪知暴虐のその王がいるのだ。民主主義国家ではなく、縁故主義国家。 アへは、最後の切り札、大叔父にあたるサトーⅡ世のやった『黒い霧解散』のタイミングを狙っている。1967年、サトーは数々のスキャンダルをかかえて解散したが、その衆院選で自民党は微減するも、予想外の善戦で安定多数を維持。サトーは求心力を高め第2次組閣、日本政治史にも稀な長期連続政権を達成した。わが青春時代を覆った、長い長いあくびのように退屈なサトーの治政。植民地化だけが進んだ。 そしてメロスが悪王アへを弾劾したことは「なにかの間違い」とだれかが言い出し、あれだけ大量に改ざんされた公文書たちは、ただの紙切れになって舞い上がる。司法が政権に逆らうこともなく、長いあくびのような悪王の治政が、当分の間つづくという悪夢。 えにぃうえぃ、たとえ稀代の悪王=アへⅢ世を失墜させても、更なる次の仲間うち悪王に取って代わるだけ、という諦観論で列島はふたたび埋まり、全員が失意のどん底に戻る。 ※ ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息をのんで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂け目からこんこんと、なにか小さくささやきながら、清水がわき出ているのである。その泉に吸い込まれたようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一くち飲んだ。ほうと長いため息が出て、夢からさめたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復とともに、わずかながらの希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、木々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は信じられている。私の命などは、問題ではない。死んでおわび、などと気のいいことはいっておられぬ。私は、信頼に報いねばならぬ。いまはただその一事だ。 走れ! メロス。(『走れメロス』太宰治・p-18) 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻のあの悪魔のささやきは、あれは夢だ。おまえの恥ではない。やはりおまえは真の勇者だ。ふたたび立って走れるようになったではないか。ありがたい。私は、正義の士として死ぬことができるぞ。ああ陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせてください。 道行く人を押しのけ、はねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原での酒宴の、その宴席のまっただなかをかけ抜け、酒宴の人たちをぎょうてんさせ、いぬをけとばし、小川を飛び越え、少しづつ沈んでいく太陽の、十倍も早く走った。 (『走れメロス』太宰治・p-19) 100万人で走るメロス
「私は信頼されている」とくり返し、メロスは裸足で大地を大きく蹴って前進する。一歩づつ、地中に住む無数のバクテリアが破壊され、かれらのエネジーは光子となってメロスの肉体へと跳躍し、革命のエネルギーとなる。このエネジー転換を、鈴木大拙は『大地性』と呼んだ。そして、メロスの両の瞳はまっすぐ正面の大きな夕日をみつめている。 この国でメロスの不在を感じたひとは、結局自分自身がメロスになって走り出すしかないことに気づく。大切な友人の命を救うために、メロスは走る、村まで走り、邪知暴虐の王の待つシラクスの市まで戻ること。親友セリヌンティウスの命とひきかえに、自分の命をさし出す強い意志をもつこと。生命を転換する行為。その意志を、無心の信頼をとりもどすために走る。 そのとき、親友だけではなく自分以外のすべてのひととかならずどこかで結ばれ、どこかで繋がることができる。他者のためのかぎりなき『愛』。 そしてその愛とは、メロスが一歩づつ蹴上げる母なる『大地』にある、と鈴木大拙は、統帥権妖怪が大腐敗した戦争末期=1944年に叫んだ。 『大地性』 鈴木大拙 天日はありがたいに相違ない。またこれがなくては生命がない。生命はみな天を指して居る。が、根はどうしても大地に下さねばならぬ。大地にかかわりのない生命は、本当の意味で生きて居ない。天は畏るべきだが大地は親しむべく愛すべきである。大地はいくら踏んでも叩いてもおこらぬ。生まれるも大地からだ。死ねばもとよりそこに帰る。天はどうしても仰がねばならぬ。自分を引き取ってはくれぬ。天は遠い、地は近い。大地はどうしても母である。愛の大地である。これほど具体的なものはない。宗教は実にこの具体的なものからでないと、発生しない。霊性の奥の院は実に大地の坐に在る。(中略) 天日は死した屍を腐らす。醜きもの、穢らわしいものにする。が、大地はそんなものをことごとく受け入れて、なんの不平もいわぬ。かえってそれらを綺麗なものにして新しき生命の息を吹きかえらしめる。人間は大地において、自然と人間の交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて、農作物の収穫につとめる。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ大地はこれを助ける。人間は大地の力の如何によりて自分の誠を計ることが出来る。大地は詐(いつわ)らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。人間の心を正直に映しかえす鏡の人面を照らすがごとくである。 大地はまた急がぬ、春の次でなければ夏の来ぬことを知って居る。蒔いた種子はその時節が来ないと芽を出さぬ、葉を出さぬ、枝を張らぬ、花を咲かぬ、従って実を結ばぬ。秩序を乱すことは大地のせぬところである。それで人間はそこから物に序あることを学ぶ。辛抱すべきことを教えられる。大地は人間に取りて大教育者である。大訓練師である。人間はこれによりて自らの感性をどれほど遂げたことであろうぞ。(『日本的霊性』鈴木大拙 p-61) 誇大妄想などではない、この決して英雄の出てこない国で、自分自身こそがその稀代の英雄だ、と信じることだ。メロスになり切って、愛の大地を一歩づつ踏みしめていくことだ。『大地性』は必ず手伝ってくれる。一瞬、自分が走った跡を振り返って見たまえ。自分とおなじように、100万人の稀代の英雄たちがそれぞれ全力で大地を蹴って走りはじめているじゃないか。あの竹馬の友、王の人質となったセリヌンティウスも走っている。 妄想のように唱えていたアへⅢ世を失脚させることは大事だが、そのあとの国を担うのは、私たち=名もなき『メロスたち』しかいない。走れ、100万人のメロスたち。まわれ、飛べ、メロスたち。 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。まにあう、まにあわぬは問題ではないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついてこい! フィロストラトス。」「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、まにあわぬものでもない。走るがいい。」いうにやおよぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くしてメロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。なにひとつ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力に引きづられて走った。陽は、ゆらゆらと地平線に没し、まさに最後に一片の残光も消えようとした時、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。まにあった。(p-22) 太宰の物語では最後に、暴君ディオニスは新王メロスにむかって「どうかわしをも仲間に入れてくれまいか」と懇願する。もちろん現実のアへⅢ世の醜態にくらべれば、潔く身を引いたディオニス王の変身はうんとましで、人間味に溢れている。 太宰の物語がどこまでも輝いているのは、いまのいままでの憎しみの原点=敵の邪智暴虐の王すら許すという、メロスの『愛』の勝利ということだ。憎しみの塊であった旧王をすら包み込んでしまう愛。それらは旧王にまったく欠けていただけでなく、メロスをも含んだ私たち日本人の闘争心の内側に、大きく欠けていた最も大切な感情ではないだろうか。 どっと群衆の間に、歓声が起こった。「ばんざい、王様ばんざい」 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスはまごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、きみは真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を、みんなに見られるのが、たまらなくくやしいのだ」 勇者は、ひどく赤面した。(古伝説と、シルレルの詩から) 走れメロス・完 メロスの物語を読み終えて、最後の部分でメロスが『全裸』だったことにあらためて感激している。 濁流に呑まれ、山賊と闘い、メロスはすべての衣装を剥ぎ取られ、さらに走る。その『全裸』で走るすがたは、世界の戦争という戦争を深く認識しつつ、それを完全に否定しきった『憲法九条』のすがたと同調する。 邪知暴虐のアへⅢ世が称える、宗主国の戦争に参加するという狂気を、70年前に一喝している。はだしで、はだかで、武器を持たず、丸腰で、理念である九条のみを抱えて走る。走っているあいだも、大地からは反戦のエネジー、「同朋を殺すな」というメッセージが全人類に伝播する。そして走り終えた新しい王メロスのまえに、現代日本の進むべき『正道』が示されている。
by nyckingyo2
| 2018-05-13 21:34
| ことばと音をコラージュする
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